アモス書 5章16〜27節
今日も皆さまと共に礼拝に与れる恵みを心から感謝いたします。新型コロナウイルス感染状況が落ち着きはじめ、私たちは教会という神の家に自由に集まることができるようになりました。この教会は神のものであり、神と私たち人間の間には、大祭司であるイエス・キリストが立っていておられます。ですから私たちははばかることなく神に近づくことができることを感謝したいと思います。
へブライ人への手紙10章25節には、「ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。」とあります。この「かの日」というのは、神がこの世の悪に勝利を得て栄光を明らかにされる日です。「主の晩餐」の時に「マラナタ」(主よ来たりませ)と賛美するのはこの日のことです。それは私たちにとっては希望の日です。この日を思うなら礼拝に励まずにはおれないと語っているのです。
ところが、今朝お読みしたアモス書5章18節には「災いだ、主の日を待ち望む者は。主の日はおまえたちにとって何か。それは闇であって、光ではない。」とあるのです。いったいこれはどういうことなのでしょうか。そのことを本日のみ言葉から聞いていきたいと思います。
先日もお話いたしましたが、アモスが北イスラエル王国で主の言葉を預言した頃は、イスラエルの国はヤロブアム王の治世のもとに大きな版図を得て繁栄を誇っていました。イスラエルはダビデ時代に匹敵する繁栄を貪り、将来もまた自分たちを選んでくださった神による勝利が約束されているとの思いで安穏と暮らしていたのです。富める者は貧しい者を虐げてさらに貧富の差が増し、人々は無慈悲で自己中心的に生き、社会には不正が横行していました。
その時、職業的預言者でも何でもなかった南ユダの国に住む一介の牧者にすぎないアモスが登場して神の言葉を預言したのです。アモスはこの繁栄の陰にある罪を指摘しました。ここでアモスは「主の日」について語っています。「主の日」は神の正義が誰の目にも明らかなものとして示される時です。正義がなされる時には悪は裁かれます。アモスはイスラエルが神の前に悔い改めて生きること、主を求めて生きるようにと勧めているのです。悔い改めて主を求めて生きないならば、必ずイスラエルに主の裁きが臨むのだと語りました。
「(16節)それゆえ、万軍の神なる主はこう言われる。どの広場にも嘆きが起こり/どの通りにも泣き声があがる。悲しむために農夫が/嘆くために泣き男が呼ばれる。」ここには、裁きがイスラエル全土に及ぶことが告げられています。泣いたり嘆いたりすることは、肉親の死を悼んでいる様子です。ところが死者があまりに多いために、葬儀の時の職業的な泣き女だけでは足りずに、農夫たちさえそのために雇われて泣き男となると言っているのです。
もともとイスラエルは「主の日」を、救いの日、栄光の日として待ち望んでいました。しかし先ほど読みましたように、「(18節)それは闇であって、光ではない。」その日は暗くて光がない日、
輝く日ではなく、悲惨と暗黒の日だというのです。もし主の日がそのような日であるならば、どうしてあなたがたはそのような主の日を待ち望むのか。裁きと刑罰を待ち望むのか。いや、そんなはずはないだろう。そうであるならばイスラエルよ、悔い改めよ、そして主に立ち帰れ。アモスはそのように語っているのです。
そして19節には、主の日の裁きが決して逃れることのできないものである様子が語られています。
「(19節)人が獅子の前から逃れても熊に会い/家にたどりついても/壁に手で寄りかかると/その手を蛇にかまれるようなものだ。」ある人が獅子の前からやっと逃れたと思ったら、目の前に熊がいたのです。そして熊を逃れてほっとして自分の家に帰ったら、家の中は真っ暗で何も見えなかった。闇の中では何の支えもないと、立っていることさえ不安定ですから手探りで壁にさわろうとします。しかしそこには蛇がいて手を噛まれてしまうのだというのです。何と恐ろしい状況でしょうか。もう逃れようがありません。何の支えもない不安で恐ろしい状況、これが神に選ばれた民だと自負しているあなたがたの姿ですよ、とアモスは伝えているのです。
自分たちは神に選ばれた民、自分たちには神がついているとイスラエルの人々は信じていました。
しかしアモスは、あなたがたの最も栄誉ある日だと思っている「主の日」には、このようにあなたがたが裁かれる時になるのだ、あなたがたはそれほどの罪の中にあるのだと指摘しているのです。ではこれほどの恐ろしい状況に陥ることになってしまったのはどうしてでしょうか。それが21節以下に書かれています。
「(21節)わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。祭りの献げ物の香りも喜ばない。」イスラエルには神によって定められた三つの祭り(過越、七週、仮庵)があります。ところが、イスラエル人にとって最も重要なこれらの祭りが、今や神によって憎まれるものとなり、受け入れられないものとなってしまったのだというのです。それはどうしてかと言うならば、その当時イスラエルで行われていた礼拝儀式が心の伴わない形だけのものになっていたからです。
古くからユダヤ人は神への礼拝や祭りを絶やしたことはありません。自分たちは真の神を拝んでいるのだと自負しています。それは他の民族がしている偶像礼拝を裁く心に現れています。しかし、では、あなたがた自身の礼拝は本物なのかと言われれば、結局自分たちがいましていることに目を向け、自分自身の心に問わざるを得ないのです。イスラエル人の思いとは裏腹に今のイスラエルの
人々は神から遠く離れていました。
「(22節)たとえ、焼き尽くす献げ物をわたしにささげても/穀物の献げ物をささげても/わたしは受け入れず/肥えた動物の献げ物も顧みない。」神が受け入れられるのは、何より神の前での砕けた魂、悔いた心です。ですから心の伴わない、形式だけの犠牲は神に受け入れられることがないのです。神が彼らと共におられるためには「悔い改めにふさわしい実」が求められるのです。
「(23節)お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。竪琴の音もわたしは聞かない。」私たちが今讃美歌を歌っているように、ユダヤの人々は詩編の賛歌を歌い、美しい琴やハープの音色で神を讃美していたようです。しかし、心が伴わないならば、神にとっては騒音でしかない。それを聞かれる神の耳には我慢ならない騒音にすぎないからその音を断て、止めろと言われるのです。
そして言います。「(24節)正義を洪水のように/恵みの業を大河のように/尽きることなく流れさせよ。」砂地や岩山の多いこの地方では、涸れることのない川や水の流れは命の源でした。人間は一人で生きていくのではなく、共に生きて社会を形成しています。その社会の中で正義が行われる
というのは人間生活を形作る上で最も大切で必要な秩序です。正義は神を信じる者にふさわしい真実の道を指します。ですから正義を洪水のように満たし、恵みの業があふれるようにしなさいとアモスは強く訴えているのです。
アモスは礼拝の堕落が社会生活の堕落につながっていることを鋭く見抜いています。イスラエル
は国の繁栄を誇り、富む者がいよいよ豊かになっていくその一方で、貧しさや苦しさに喘ぐ人々がいることを指摘しています。このことを無視して豊かな者だけが良い気持ちになっていることが神に喜ばれることだと思うのか、アモスはそのように問いかけているのです。何と今の社会や政治のあり方とて似ていることでしょうか。今の人間社会の状況を神は喜んではおられないと思います。
「(25節)イスラエルの家よ/かつて四十年の間、荒れ野にいたとき/お前たちはわたしに/いけにえや献げ物をささげただろうか。」ここを読みますと、イスラエルの民が神をないがしろにすることは今に始まったことではないことがわかります。この40年というのは、イスラエルの祖先たちがエジプトを逃れ、モーセに導かれて旅をしたあの40年のことです。つまりユダヤ人の信仰の歴史の最初の頃のことです。そのことをアモスは引き合いに出しているのです。その旅の間、彼らは礼拝を捧げ、献げものをしました。しかしそれは本当に私に対してであったのか、と神が反問されているのです。
「(26節)今、お前たちは王として仰ぐ偶像の御輿や/神として仰ぐ星、偶像ケワンを担ぎ回っている。それはお前たちが勝手に造ったものだ。」ここに出てくる「神として仰ぐ星」や「偶像ケワン」というのは、イスラエルがアッシリアに滅ぼされた時に持ち込まれた異邦人の神です。27節ではアッシリアよる捕囚の預言がなされています。真の神を信じる民にふさわしい生活をしていない今のイスラエル民族は、あなたがたがあざけっているこれらの神に屈服しているだけではないかと言っているのです。
このところを読んで気づくのは、このアモスは職業的預言者でも、礼拝儀式を執り行う祭司でも
ないただの人でしたが、礼拝の専門家であり礼拝を取り仕切っている祭司たちや律法学者たち、そういう宗教家が見抜けなかった礼拝の堕落を、この羊飼いアモスが見抜いていることです。神はこの素人預言者を立たせて、本当に神への信仰に立っているかと、礼拝の堕落を暴いているのです。
人間はその中に埋没していると、客観的に自分自身を見ることができなくなるのかもれません。私たちの礼拝はこの批判に耐えることができるでしょうか。
真の礼拝は、まず神の言葉が語られ、そこに集まる者が神の言葉に耳を傾け、神の御心を聞いて
感謝し喜ぶことです。アモスは神の言葉を預言しながら、もし神が耳や目を背けて、私たちの讃美や祈りを退けられたら、そして人間に対して沈黙されたならどんなに厳しいことになるか、どんなに恐ろしく悲しいことであるかを、あなたがたは知っているかと問うているのです。
私たちはアモスの裁きの言葉を正しく聞きたいと思います。アモスは、イスラエルのお金持ちの傲慢な生活を諫めるような、人間の単なる倫理的、道徳的面を語っているだけではないのです。主なる神を求める者は単なる倫理的な善行者以上の者です。本当の神を信じて生きる者は、主なる神を求めて生きる垂直面と、隣人や社会の中で善を求めて生きる水平面の二つの両輪があるのです。
私たちはいま、誰でも自由にこの礼拝に参加することができます。すべての人に向かって神の招きがあります。神は御子イエス・キリストをこの世に送ってくださり、罪の贖いである十字架と復活の出来事においてイエスを大いなる大祭司として私たちの間に立たせてくださいました。ここに私たちがはばかることなく大胆に神のみ前に出る道が開かれたのです。もう私たちの罪や不法を神が思い起こされることはありません。本来、アモスの語る厳しい言葉には耐ええない私たちですが、ここにイエスという天からの全き供え物があったことをしっかり覚えたいと思います。その贖いの御業を受け入れて生きる時、そこに真の正義に生きる道が備えられていくのです。
神は今も「正義を洪水のように/恵みの業を大河のように/尽きることなく流れさせよ。」と語っておられます。神の正義と神の恵みがこの社会に満ちますように、心から祈り願っていきたいと思います。
(牧師 常廣澄子)