初めの愛

ヨハネの黙示録 2章1〜7節

 本日からしばらく、七つの教会に宛てた手紙を読んでいきたいと思います。これらはヨハネがキリストから託された手紙で、どの手紙にもその冒頭に「…の教会の天使にこう書き送れ」というように呼び掛けられています。それを語っておられるのは1節にありますように「右の手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方」キリストです。

 まず1章の最後20節で、七つの燭台というのは七つの教会のことであると言われました。これはキリストが世にある教会をその御手の中においてくださっているということです。そして教会の間を歩いておられるというのです。ただ立っているのでも座っているのでもありません。歩いておられるのです。疲れを覚えて休まれることなく、いつもどんな時も常に教会はキリストの見守りの中にあるということです。

 本日の手紙は七つの教会へ宛てた手紙の筆頭で、エフェソにある教会に宛てられています。エフェソは小アジア地方の大都市で、ローマ帝国から認められた自由都市であり、政治的、経済的に非常に重要な場所でした。ここはアジアの門戸であり、ローマへの門戸でもあり、交通の要所でした。小アジア最大の港がありましたので、商業の中心地でもありました。ローマから長官が赴任する時は必ずエフェソで下船して入国したようです。またここは皇帝礼拝だけでなく偶像礼拝が盛んで異邦の神々が混在していました。とりわけ大きかったのがアルテミスの女神を祭る神殿で、間口67メートル、奥行き130メートル、高さ18メートルの円柱120本でできていたと言われています。

 またこの地には多くの異教的迷信がはびこっていたと言われています。神殿では護符やお守りが売られていました。これを買えば病気が癒される、不妊の女性には子が授かる、事業が成功すると言われていたので、それを買うために各地から人が集まってきたようです。そのように偶像があるところや神殿では、物品を販売して儲けていた商人がたくさんいたのです。使徒言行録19章には、デメテリオという銀細工師がアルテミス神殿の模型を作って販売して利益を得ていたことが書かれています。

「(2節)わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており、また、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている。」ここに「わたしは知っている」という言葉がありますが、これは七つの手紙全部に共通しています。日本語では一番最後に来る動詞ですが、原文のギリシア語では一番最初に「わたしは知っている」と語りはじめるのです。どの教会のこともすべてキリストが知っていてくださるのです。エフェソの教会については何を知っておられるのでしょうか、みていきたいと思います。

 当時の社会、特に異教の神々が林立しているエフェソでは、キリストを信じて生きることは大変な苦難と困難の中にありました。この世のやり方に倣って生きた方がずっと楽だったのです。しかしそのような信仰の戦いの中にあっても、教会は決して孤立しているのではないこと、キリストはその苦しみや痛みをすべて知っていてくださると語っているのです。なんという慰めであり励ましでしょうか。

 エフェソのクリスチャンたちは、もちろんそのような異教の神々を拝むことは拒否したでしょうし、各種の宗教儀式に参加することもなかったでしょう。彼らの生活習慣からは距離を置いていたと思います。しかしそのことの故に迫害され、様々な嫌がらせや妨害にあっていたのです。しかし彼らは健気に戦いました。「(2節)あなたが悪者どもに我慢できず」この悪者どもというのがどういう人たちかはっきりしませんが、異端的な発言をして教会内をかき乱す人たちがいたのかもしれません。エフェソの教会の人たちはそういう言動を我慢せず、赦さなかったのです。

 また、当時の教会には各地から巡回伝道者が訪れて説教していたようです。「自分はイエスの使徒だ」と自称して説教するけれども、少しもキリストの福音が語られずに、何か目新しいことを言って人々の気を引いて惑わすような人たちがいたのでしょう。そういう人たちのうそを見抜いたのです。そして「(3節)あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲れ果てることがなかった。」エフェソの教会の人たちは、異端の教えが入り込むたびに、それに忍耐をもって対応し、退けて、弱り果てることがなかったと言われています。どういうふうに決着をつけたのか詳細はわかりませんが、訓戒したのでしょうか、教会で語ることを拒否して追放したのでしょうか、とにかくエフェソの教会の人たちは、そのことに信仰を持って対応し、教会本来の健全な状態を保つことができたようです。そのことでは賞賛されているのです。

 しかし、それにも関わらず、「(4節)しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。」キリストはエフェソの教会の人たちに責むべきことがあると言われます。それは「初めの愛から離れてしまった。」ということです。普通は「初め」というと時間的な初めの頃だと考えます。実際、エフェソ教会の初期の頃には、人々は信仰に燃え、初々しさに満ちていて、みんなが福音伝道に熱心だった時代を思い浮かべたかもしれません。信徒たちは互いに心から愛し合い、団結し、手を取りあって喜んで人を助けていたに違いありません。それと同時に、教会に入って来る悪い人たちや誤った教えを語る人たちを吟味し、識別して、教会の交わりから追放したり、入会を拒んだりしたわけです。しかしそのようなことが続いているうちに、大事なもの見失ってしまうという大きな問題にぶつかったのです。

「あなたは初めのころの愛から離れてしまった。」初めのころの愛を失ってしまったとは、いったいどういうことでしょうか。初めの頃のクリスチャン同士の素晴らしい交わりの感激が薄れたのでしょうか。クリスチャン同士の愛が薄れてきたのでしょうか。教会に紛れ込んできた悪者のうそを見破り、異端や悪い教えを追放しようとして、人を見ると疑いの目で見ていたのかもしれません。誤った人を一掃するあまり、福音とそうでないことを見極めなければいけなくなって、信仰が批判的になり、いつのまにか人を裁く者になっていたのかもしれません。

 本来、教会の立ち位置はどこにあるのでしょうか。それは「神は愛である。」ということです。ヨハネの手紙一4章10節に「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」と書かれているように、神がまず最初に私たちを愛してくださいました。これが信仰の根本です。神が私たちを愛してくださったから、私たちは初めて愛ということを知ったのです。神が私たちを愛し、認めて受け入れてくださったから、私たちは神への信仰に導かれたのです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ(ヨハネによる福音書15章16節)。」とあるとおりです。このお方が私たちを愛してくださったが故に、私たちは初めて真の神を信じる信仰を持てたことを忘れてはなりません。

 これが初めの愛、神の愛、イエス・キリストによる愛です。信仰はこちら側からだけ見ていても本質はわかりません。まず初めに、天地万物をお創りになられた創造の神、愛の神から出発があるのです。神の側に信仰の源泉があります。光が上から来て暗闇の中にいる私たちを照らしてくださったから、私たちは光を知ったのです。そしてその光によって導かれるようになりました。イエスは「わたしは世の光です。」と言われました。だからその光で照らされている私たちも世の光、地の塩なのです。

 キリストはこう言われるのです。「確かにあなたがたは称賛される歩みをしてきた。偽物を見抜き、悪しき者を拒否してきた。立派で見事なことである。しかし残念だけれども、あなたがたに欠けている所がある、責むべきことがある。それは初めの愛から離れていることなのだ。」「(5節)だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう。」

 どんなことにも共通して言えることは、表面的、形式的には整っていて、一応形にはなっていても、根本的なことが忘れられ、失われていたら本末転倒だということです。教会や信仰のことはこのことが一番大事なのです。「どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ」と言われています。悔い改めるということは、単なる反省や後悔ではありません。イエス・キリストに対する信仰生活をもう一度改めて建てなおすことです。イエスがこの世の救い主であり、私たちの救い主であること、このお方以外に救いはないということを知って信仰の喜びに与った時のことをもう一度思い起こすことです。その心が神と隣人への愛につながっていくのです。

 そしてこの初めの愛に立ち返らないならば、「わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう。」とキリストは言われます。これは厳粛に聞き取らねばならないことです。燭台とは教会のことです。教会が神の愛から離れてしまったら、教会は教会ではなくなるということです。教会のよって立つ所はただ一つ、私たち人間を愛してくださる神の愛なのです。

 しかしそのように厳しいことを告げながらも、エフェソの教会の人たちがニコライ派の者たちの行いを憎んでいることを、それはあなた方の取り柄である、とほめています。この「ニコライ派の人」が誰であったかはよくわかっていませんが、外から教会に入って来た異端というよりも、教会内部で間違った主張や聖書理解が出てきて一つのグループを作っていたのだと考えられています。いつの時代でも教会の中には分裂を起こしたり、信仰を惑わすような人が現れていたのです。

 そこで、「(7節)耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。」イエスもまたよく言われました。「聞く耳のある者は聞きなさい(マルコによる福音書4章9節他)。」と。この“霊”とは主の御霊のことです。信仰は肉の目では見えないものです。御霊が語られることを聞くことなのです。この礼拝の中で、神が御霊を通して私たちに語っておられることを受け止めることです。1章で言われていますように「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」「わたしはアルファでありオメガである方」「死と陰府の鍵を持っているお方」が、今、コロナ禍の中でもここに集まってきた私たち、弱く小さく貧しい者たちに今日も語っていてくださるのです。このお方を見失ってしまったら、お声を聞くことができなくなったら、そこには何の望みも希望もありません。黙示録は難解な書だと言われています。しかし耳を澄まして御霊が私たちに語っておられる御声を聞く時、かけがえのない、今こそ聞き取らねばならない言葉が語られているのです。

 最後は壮大な約束です。「(7節)勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう。」「勝利を得る者」というのは黙示録によく出てくる言葉です。キリストを信じる者はこの世を戦場と考えて勝利を得る者だと考えられていたからです。「神の楽園にある命の木の実」は、創世記2章9節にあるエデンの園にある命の木のことを言っているのだと考えられます。ここではそれを食べることを許そうと言っています。勝利する者は命の木の実を食べて、神の新しい楽園に入ることが許されると言っているのです。それはこの世の悪に打ち勝った者が神の国で義の祝福を受けることであり、キリストの支配が確立された時に、すべて主に忠実に生きて勝利した者が神との麗しい関係を取り戻して、大いなる喜びに与ることを宣言しているのです。

 キリストは既に勝利をおさめられています。ですからキリストの十字架の愛を信じた私たちは希望をもって生きていくことができます。キリストの御霊は今もこれからも、私たちに語り続け、正しい道へとお導きくださいます。「耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。」新しい週も、霊の耳を澄ませながら、生きていきたいと願っております。

(牧師 常廣澄子)