2022年7月10日 主日礼拝
ルカによる福音書 8章1節~15節
牧師 永田邦夫
本日も、ルカによる福音書からのメッセージをご一緒に聞いて参りましょう。その箇所は、8章1節から15節です。「早速、本日箇所に入りましょう」と言いたいところですが、この福音書では、主イエスさまは、その伝道において大きな転換期を迎えようとしておりますので、そのことを先に確認したうえで、本日箇所に入っていきたいと存じます。
その大きな転換期とは、主イエスさまにとって、エルサレム行きに備えて、その準備期間に差し掛かっている時である、と言うことです。なお、そのエルサレムでの最後は、十字架と復活の時を迎えるということは、皆さんもご存じの通りです。次の9章51節には、そのエルサレム行きの決意の言葉が記されています。そのエルサレム行きを控え、聖書の本日箇所は、ガリラヤ伝道のいわば仕上げの期間に入っているのです。その中でも大切なことは、先に選んでいる十二人の弟子を、独り立ちさせることでした。
このガリラヤ伝道の期間中に、御国のことを教え、癒しのわざなどを行っている中で、主イエスさまは、ご自身の死と復活の予告を、二回にわたってなされています。この告知は、わたしたちの胸に、ジーンと迫ってくる厳粛さを感じさせます。
そして、本日箇所の8章1節には、「すぐその後(のち)、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。」とあります。この書き出しの言葉の「すぐその後」によって、内容的には、前の箇所から続いていることがわかりますので、前の段落に何があったのかを確認してから進みたいと思います。
主イエスさまが、ファリサイ派の人シモンの招きで、食事の席に着いていたときのこと、そこに“罪深い女性”と言わながら生きて来た人が入ってきて、すぐさま、泣きながらイエスさまの足を涙でぬらし、髪の毛でぬぐい、さらには、その足に高価な香油をかけた、と言う出来事が起こりました。イエスさまは「金貸しのたとえ」を引き合いに出し、最後は、その女性の愛の大きさを賞賛されたのち、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と、その女性への罪の赦しと励ましを与えて送り出した、と言う出来事がありました。では続いて、8章に入ります。1節の文言は、先ほどから見てきました通りですが、再度確認しますと、主イエスさまは、十二人をも伴いながら、町や村を巡っての福音伝道の旅を続けていた、ということです。
続いて2節、3節には、その伝道の旅を陰で支えて、大きな働きをしている女性たちのことが記されています。これは、前の7章からの、いわば“女性つながり”で、8章に入っている、とも理解できます。では、この段落に女性たちのことが、どう記されているのかを見て参りましょう。まずは、「マグダラの女と言われるマリア、そしてヘロデ(領主ヘロデ・アンテイパス)の家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ」の三人です。なお、先に記された二人は、後々に、主イエスさまの十字架と復活の際にも再び登場しています。しかし三人目のスサンナは、聖書のここだけに登場する人です。さらには、「そのほか多くの女性たちも一緒であった。」と記されており、さらに「彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」とありますように、当時はまだ、主イエスさまが中心であった伝道の働きに対して、この女性たちの支えが大きな力になっていたことを知ることが出来ます。
では具体的に、その伝道の様子を見ていきます。ここはいわゆる「種まき」のたとえ、とされている箇所が続きます。そして、最初に触れておきたいこと、それは、これらの“種まきのたとえ”の中心は、種の蒔き方ではなく、蒔かれた種が、その場所、すなわちその土地によって、どのようになっていくのか、果たして芽を出し、その芽が成長してゆき、やがて実を結ぶことが出来るのか、そのことが関心事であり、福音伝道の核心部分でもあります。そのことが、教えとして語られているのです。
4節には、「大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。」とありまして、この箇所全体は、この福音書の著者ルカの立場で記されております。では、順番に見ていきましょう。
最初の種は、「道端に落ちた種」です。道端は人通りも多く、またほかの動物もいる場所です。(5節)「ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。」とあります。そこでは、元も子も無くなってしまいました。
二番目は、石地に落ちた種のことです。(6節)「ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。」とあります。芽が育っていくための水分が無いのは致命的です。
三番目は、茨の中に落ちた種のこと、(7節)「ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。」実際の状況がを目に映ってきます。
そして最後は、良い土地に落ちた種のこと、(8節)「また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」とあり、最後は「イエスはこのように話して、『聞く耳のある者は聞きなさい』と大声で言われた。」と結んでいます。イエスさまは、方々の町から集まって来ていた群衆を前にして、相当、気合が入っていたであろうことが想像できます。この時のイエスさまのお気持ちは、最後に挙げた例の如く、そこに集まった多くの人が、良い土地に蒔かれた種、のように、み言葉を素直に受け入れてほしい、そのような願いが込められていたのです。
次は、二段落目の9節、10節です。前の段落で、主イエスさまが大勢の群衆に向かって話された、そのたとえ話を(群衆と共に)一緒に聞いていた弟子たちが、今度はイエスさまに向かって、「先ほどのたとえ話の意味は何か」、と尋ねました。
そのときの、イエスさまの答えが10節です。「あなたがたには、神の国の秘密(すなわち奥義)を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである。」とあります。(なお、ここで引用されている『』内の言葉は、イザヤ書6章9節、10節からの引用です。)
では10節に込められた意味は何かを、確認しましょう。弟子たちは、神の国の秘密については、たとえ話からでも、理解することが出来る。しかし、他の多くの人々にとっては、それが出来ない、と言う意味です。そして、『』内で引用されている、イザヤ書から言葉は、いわば、反面教師としての言葉です。すなわち“本当はそのようになって欲しくない”、と言っているのです。
次は11節から、最後の段落となります。因みに、前の4節からの段落で、種まきの対象となっていたのは、それぞれ違った四つのタイプの「土地」でしたが、11節からの段落では、本来の目的に戻って、御言葉の伝道の対象となる「人」です。それぞれの四つのタイプの土地に対応して、四種類のタイプの人が登場してきます。神の御言葉の伝道においては、人は、伝えられたその御言葉をどう聞き、どうそれを受け入れていくのか、また受け入れないのか、このことが最大の関心事となってきます。では、その内容をご一緒に詳しく見て参りましょう。
では12節から、「道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。」と記されています。なお、この説明で引用されているような、御言葉を奪い去る悪魔、の立場だけでなく、奪い去られる人にならないように、聞いた御言葉を、しっかり信じ、それを受け入れていきたい、これが勧めの言葉の意味でもあります。ここで、マタイによる福音書26章の41節に「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」この聖句を思い出します。
次は13節、石地にたとえられた人の例です。「石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遇うと身を引いてしまう人たちのことである。」とあります。“石地”とは全くの石ばかりではなく、多少の土もあり、また雨が降ると水を貯えます。よって、そこに蒔かれた種はすぐ芽を出す、すなわち御言葉を直ぐ受け入れはするが、そこで、生長していくことは困難で、しぼんだり、枯れたりしてしまう、信仰がそこで、しっかりと根を下ろすことは困難である、と言っています。
三番目、今度は、茨の中に落ちた種に準えられている人のことです。14節に「茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。」とあります。茨の土地は、本来は豊かな土地なので、いろいろの植物もよく育ちます。聖書の説明のように、「思い煩い、富、快楽」だけではなく、自分の中の思いとは関係なく、外から襲ってきます悲しい出来事、不都合な出来事によっても、その人の信仰が妨げられてしまうことも、多くあります。しかし、わたしたちにとっては、決して他人事ではなく、わたしたち自身も、そのような危険に晒されながら、それぞれの人生の歩みを続けているのではないでしょうか。
最後は、良い土地の例です。15節「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちです。」とあります。この言葉を聞きますと、ほっとさせられ、また、嬉しさが湧いてきます。福音伝道において、御言葉の種まきをする人も、またその御言葉を聞く側の人にとっても、これほど嬉しいことはありません。共観福音書の並行記事(マタイによる福音書13章23節、マルコによる福福音書4章20節)には、「あるものは百倍、ある者は六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」と記されています。
このように、わたしたちも、人によって立場こそ違え、それぞれが多くの実を結びながら、御国を目指しつつ、生きて参りましょう。
(牧師 永田邦夫)