2022年8月28日 主日礼拝
コリントの信徒への手紙一 6章12~20節
牧師 常廣澄子
今までみてきましたように、コリントにあった教会は問題の多い教会でした。先日は教会内の信徒相互の間に起きた問題を、この世の法廷に訴え出たということ訴訟事件についてお話しいたしました。その内容が何であったのかはわかりませんが、それが個人の名誉の問題であろうと利害関係のある問題であろうと、神を知らず信仰に関わりなく生きているこの世の法廷に訴えるとは何事かとパウロは叱責していました。パウロは彼らにキリスト者としての自覚と責任をもって生きて欲しいがゆえに語っているのです。
パウロによれば、キリスト者というのは、神の前にあって神と共に生きている者です。とりわけキリスト・イエスの限りない恵みと憐みによって、罪が赦され神に義とされて生きている者です。ですから、先ほどの訴訟問題について言うならば、神の恵みのもとに生きているキリスト者であるにも関わらず、信徒相互の間に起きた小さな事件でさえ、神に祈り、御心に添った判断をして解決する力がないとはどうしたことか、そのような教会内のことを、恵みの神とは無関係に生きているこの世の裁判官に委ねるとはもっての他ではないかと言っているのです。コリントの信徒への手紙にはその他いろいろな事柄が語られていますが、5章から7章あたりにはほぼ一貫して不品行の問題が取り上げられています。
今朝お読みしたところでは、パウロはまず12節で「わたしには、すべてのことが許されている。」と語ります。「すべてのことが赦されている」というのは、完全なる自由が与えられているという意味です。パウロはローマの信徒への手紙で、「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」(5章20節)あるいは「あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。」(6章14節)と語っているように、誰よりも力強く律法の下からの解放、すなわちキリスト者の自由を力説しています。
しかし当時、パウロに反対する者たちの間では、それを冷やかして、罪が増すところには恵みが満ち溢れるのだから「善が生じるために悪をしよう。」(ローマの信徒への手紙3章8節)というような態度を取る者がいたのです。さらにそれ以上に悪いのは、キリスト者になった者たちまでもが、パウロが説いている自由の意味をはき違え、悪用して、自分たちのしている不正な行為を正当化しようとしていたのです。そこでパウロは、福音が伝える本当の意味の自由について誤解がないようにと、ここでは二度も繰り返して強調しているのです。
ここには「わたしには、すべてのことは許されている。」と書いてありますが、だからといって殺人や姦淫や盗みが赦されているわけではありません。そこにはおのずと規律が存在します。真の自由に規律があるのは当然なことです。もしそうでなければ、それは本当の自由ではなく放縦になり、あるいは勝手気ままな自己満足になってしまいます。パウロは「だれでも自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。」(コリントの信徒への手紙一10章24節)と言っています。すなわち真の自由を行使する者は、自分の自由だけを求めて、その結果、他人を不幸に追いやってしまうとしたら、少なくともそれは本当のキリスト者の自由ではありません。
ここでパウロはキリスト者が自由を行使するにあたっての注意点を二つ述べています。「すべてのことが益になるわけではない。」「わたしは何事にも支配されはしない。」という二つのことです。「益になる」というのは、具体的には教会生活にとって最も大切な愛の行為になることを指しています。「支配される」というのは、自由という名のもとに、実は何者かに支配され得る状態になることです。パウロはキリストにある本当の自由のあり方をコリント教会の信徒たちにわからせようとしているのです。
本来キリストにある真の自由というのは「私はどんなことにも支配されません」というところにあります。そしてキリスト教信仰の特徴は、罪を犯す自由ではなく、罪を犯さない自由を与えられていることです。私たち信仰を与えられた者は、今まで神を知らなかった時の古い習慣や生き方に支配されやすいのですが、神への信仰はそれらを越えてそれらを支配する力をも与えてくれます。だからキリスト者はたとえ悪い習慣があろうと、それを支配することができるのです。
コリント教会の人々の中には、何をするのも自由だ、自由だと言って、実は本能のまま生きて、目を覆うばかりに性の奴隷になっている者がいたようです。コリント教会では一つの言葉がありました。13節がそれです。「食物は腹のため、腹は食物のためにある。」当たり前の言葉ですが、食欲を性欲に置き換え、性的本能のはけ口を遊女に求めることを正当化する言葉になっていたようです。このような論理が容認されてはなりません。そこでパウロは「(13節)神はそのいずれをも滅ぼされます。体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。」と反論しているのです。
15節で「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。」と言われているように、私たちの体はキリストの物であり、そのお体の一部とされているのです。ですからキリスト者がその体を汚すならば、主に対して罪を犯すことになるのです。そしてその説明が14節にあります。「神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。」ここで「わたしたちをも復活させてくださいます」というのは、私たちの体をもよみがえらせてくださるということです。キリスト者の体は終末の時には、キリストご自身の栄光の姿と同じ姿に変えられるのです。フィリピの信徒への手紙3章21節には、「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ姿に変えてくださるのです。」とあります。このような栄光ある体を不品行の道具としてしまうことは断じて許されないことです。
パウロはさらに念を押して、15節には「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。」と言います。キリストの復活に与っている私たちキリスト者の体は、現在すでに「キリストの体の一部」であるという特権と栄光を持っています。「キリストの体の一部」という時、それはキリストの体である教会を形作る部分であることをも意味しています。
15節には続けて「キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。」
とあります。不品行を行う者はキリストとの関係を断って遊女と関係を結び、遊女と一つになるのです。「(16節)娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。」娼婦と交われば一つの体になるのに対して、主と交われば一つの霊となります。「(17節)しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。」それは主が聖なる御霊であって、私たちがキリストを信じる時、キリストの霊が私たちの内に住まわれるからです。
パウロは最後に「みだらな行いを避けなさい。」と語ります。「避けなさい」というのは、むしろ「逃げなさい」という意味です。不品行に対してはあの手この手で戦うよりもそれを避けることが最上の方法だというのです。それほどに、人間は性的な誘惑に弱い者なのです。聖書の中にはそういう例がたくさん出てきます。あの怪力サムソンも(士師記16章参照)信仰深いダビデも(サムエル記下11章参照)みだらな行いの前にもろくも敗北しました。私たちはいろいろと罪に対して戦うことがありますが、不品行な行いからは逃走するのが一番賢明な方法なのです。そのことが端的に示されているのは、創世記39章に出て来る、ヨセフの出来事ではないでしょうか。兄弟たちによってエジプトに奴隷として売られたヨセフは、宮廷の役人ポティファルに買い取られたのですが、その女主人の誘惑から見事に逃れました。ヨセフは姦淫の罪を犯さずにただその場から逃げたのです。
「(18節)人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。」ここには、不品行がいけない理由として、それは自分自身の体に対する罪だということが明言されています。そのことは神の命令に背くことであるとか、そんなことをしたら人から悪い評判がたつ、というのではなく、不品行は自分の体そのものに対する罪であること、自分の体に対する裏切り行為だというのです。
ここでは特に体の意義、大切さについて教えています。聖書では体は特別の意味を持っています。体は命と行動の主なる機関であるだけでなく、その人自身をあらわすものです。私たちの体は神に造られたものとして、神に捧げるべきものなのです。キリスト教は御霊なる神を信じていますが、霊だけを重んじて肉体を軽視する宗教ではありません。聖書では、私たちの体は「聖霊が宿ってくださる神殿」であると教えられています。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。」(ローマの信徒への手紙12章1節)とも言われています。
またキリスト教は「体のよみがえり」ということを信じる宗教です。このことは、体は人格を表し、体の復活とは人格としての全き救いを意味しています。不品行の罪は他の罪と比較して、直接的に体と関係します。ですから体を汚すことは人格を汚すことであり、その体を与えてくださった主なる神を汚すことなのです。キリストを信じた私たちキリスト者は、キリストの血と肉によって贖われた者、つまりキリストによって買い取られた神の所有物なのです。私たちの体が自分自身の物でないなら、どうしてそれを勝手に扱うことができるでしょうか。これはキリストの体なのです。
ですからこの体を汚すことはキリストを汚すことになるのです。
私たちはキリストを救い主と信じた時に、代価を払って買い取られた者です。買い取られたのですから、私たちはもはや自分自身の物ではありません。私たち一人ひとりは買い取ってくださったお方であるキリストの物なのです。この、代価を払って買い取ることを「贖う」というのです。「贖う」という漢字の左の偏を見ますと「貝偏」です。これは古代の貨幣の一種でもあります。もちろん神の御子による人類の救いという出来事に支払われたのは、お金ではなく、神の御子イエスの十字架の死という犠牲が支払われました。父なる神が独り子なるイエスを犠牲としてお渡しくださったということは(父と子は一つでありますから)、それは神がご自身を犠牲にされたということです。私たちキリストによって救われた者は、神による自己犠牲によって、罪の裁きから贖いだされたのです。つまり買い取られたのです。
「(20節)あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」私たちを罪から救ってくださった私たちの命の代価は、キリストによる尊い十字架の死でした。その犠牲によって、私たちは律法ののろいから神の支配下に移されたのです。このような高価な代価を支払って神に贖われ、買い取られ、神の所有にされたのですから、私たちの最大の責任は、その体を不品行の道具とするのではなく、自分の体をもって神の栄光を表すことなのです。
新しい週も、私たちを贖ってくださりご自分の物としてくださった生ける真の主を見上げ、この悲惨な人間社会の上に神の憐みの目が注がれていることを信じて、感謝して歩んでまいりたいと思います。
(牧師 常廣澄子)