アブラハムの信仰

2022年11月27日(主日)
主日礼拝『 待降節第一主日 』

ローマの信徒への手紙4章13~25節
牧師 常廣澄子

 本日はローマの信徒への手紙の4章から信仰について考えていきたいと思います。今、私たちは見える世界の中にいますが、信仰というのは目に見えない世界のことです。1節に「肉によるわたしたちの先祖アブラハム」という言葉がありますが、私たち人間は身体という肉体を持っていますから、肉に従って生きています。つまり生から死へという生き方です。しかし、信仰の世界、見えない世界に目を向けた時、そこには霊による生き方、死から生へというよみがえりの人生に生きる生き方があるのです。私という人間を、神から支えられている者、神と関わる霊的な人格として認識するということです。

 この信仰の本質を、パウロはここでアブラハムの生涯に起きた出来事と関わらせて書いています。昔からアブラハムは信仰の父と言われてきました。信仰というものがどういうことかは、アブラハムの生涯を見れば良いとまで言われました。そこでまず、アブラハムの生涯について見ていきましょう。アブラハムについては、皆さんもよくご存じだと思いますが、代表的な出来事が三つあるかと思います。その初めは「あなたは生まれ故郷、父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい(創世記12章1節)。」という神からの声を聞いて生き先も知らずに出発したこと、二つ目は年老いていたにも関わらず、子どもを与えるという神の約束を聞いて信じたこと(創世記15章1-5節)、三つめは独り子イサクを献げ物としてささげなさいという神の命令に従ったこと(創世記22章)です。

 ここでは18節に「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。」とあります。ここに「希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ」とありますが、原文では「彼は望みに逆らって望みを信じた」という表現です。人間の思い、つまり常識や理性に従って望み得る望みではなく、人間がもはや何の望みも持てない状況になった時、その状況を越えてなお望むということです。この望みは理性や常識では考えられない望みですから、信仰による望みと言ってよいと思います。この信仰による望みは常識とは逆行しますから「望みに逆らって望みを信じた」という表現になるのだと思います。

 神はアブラハムに、「天を仰いで星を数えることができるなら、数えてみるがよい。そして言われた。『あなたの子孫はこのようになる。』」(創世記15章5節)と語られました。彼はその約束を心に留めました。アブラハムとサラ夫妻はその約束によって子どもの誕生を待つのですがなかなかその気配がありません。夫妻は年老いていきます。そこでこの状況をみて打開策を講じたのはサラです。アブラハムと自分の間では神の約束は起こらないということに見切りをつけて、自分以外の女性であっても父親がアブラハムであれば、神との約束は十分義理立てできると考えたのです。そして自分の女奴隷ハガルをアブラハムに取り持ち、妻公認のもとにアブラハムと関係させました。ハガルはアブラハムの子を宿してイシュマエルという男の子を生みます。イシュマエルはアブラハムの子という点では神の約束に沿っていますが、妻サライとの間にできた子ではありません。

 アブラハムはこれで神の約束は乗り切れたと思ったかもしれません。しかしそうではなかったのです。再び神の言葉がありました。それは「サラを祝福して諸国民の母とする」(創世記17章15-16節)というのです。つまりアブラハムとサラの間に男の子が生まれるということです。この時アブラハムはどういう態度だったでしょうか。「アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。『百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。』」(創世記17章17節)アブラハムは笑ったのです。信仰の父と言われるアブラハムはこの時、神の言葉を聞いて笑っているのです。相手がまじめに言っているのを笑うとは、これほど失礼なことはありません。しかもひれ伏して笑っています。顔を臥せて笑うとは何という態度でしょうか。そしてあろうことか、神が言われたこととは全く関係ないことを語っています。「どうかイシュマエルが御前に生き永らえますように。」(創世記17章18節)つまり「イシュマエルをよろしく」と言っているのです。それに対して神は「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。」と言われました。そしてその子をイサク(彼は笑う)と名付けなさいと言われました。

 創世記にはこのように書かれているのですが、お読みしたところにはアブラハムが神の言葉を笑ったとは書いてありません。19節には「そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。」というようにかなり省略されていて大変きれいに書かれています。しかし、アブラハムは現実をしっかり見ていたことがわかります。「およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも」というように、「知りながらも」は現実を認めていたということです。アブラハムはいつまでたっても子どもが生まれないのがわかっていたのです。わかっていたけれども、その信仰が弱まりはしなかったというのです。もし信仰が無い人であるならば、自分をからかっているのかと思うかもしれません。しかしアブラハムはこれを額面道理に受け取ったのです。アブラハムは不可能をもあえて信じたのです。自分の理性や経験によってではありません。神が言われるから信じたのです。しかしこの約束はなかなか実現しなかったのです。けれども「(20-21節) 彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。」

「(22節) だからまた、それが彼の義と認められたわけです。」この「義と認められた」というのは、正しいと認められたということです。この言葉は3節にもあります。「(3節)聖書には何と書いてありますか。『アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた』とあります。」この言葉は創世記15章6節からの引用です。先ほども言いましたが、義と認める(義認)ということは 正しいと認定することです。現実には正しくない者を正しい者と見なすということです。それをパウロはアブラハムの生涯に当てはめているのです。「(23-25節)しかし、『それが彼の義と認められた』という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」

 パウロがここで言いたいことは、私たち人間はイエス・キリストの死と復活を信じることによって、罪ある者が罪なき者、正しくない者が正しい者と認められるのだということです。それを説明するためにアブラハムの生涯を語っているのです。アブラハムは自分の力や努力で義とされたのではありません。私たちが聖書から読んでわかるアブラハムという人は、完璧な人ではありませんでした。どこまでも正しい人だとは言えなかったのです。神の言葉を信じる信仰どころか常識と理性に立って考え、サラの言うことに従ってハガルに子どもを産ませ、挙句の果てには神の言葉を笑ったのです。けれども神は恵みによって彼を正しい者とみなしてくださったというのです。そしてアブラハムはイサクの誕生にまでこぎつけました。17節には「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ」とありますが、子どもを設ける望みの絶えた老夫婦になお約束の子を与えられたのは、創造の神のみ業です。アブラハムの信仰は、彼自身の力や努力で与えられたものではなく、死人をも甦らせる、神の自由な恵みによったのだということをパウロはここで言いたいのです。

 そしてそれを語るのは他ならぬ私たちのためです。私たちは自分自身を顧みてどう判断するでしょうか。きっと誰一人として自分が正しい人間だと思っている人はいないと思います。人間は誰でも、人には知られなくても自分一人が抱えている暗い傷、深い闇の部分を持っています。そのような罪の塊である私たちを正しい者とみなしてくださるのがキリストの救いなのです。

 ここではアブラハムの笑いにはふれていませんが、アブラハムを立ち直らせたのは神の力だということです。ですから「信仰の父」として、信仰者の模範としてアブラハムが取り上げられるのです。ではどうして「父」なのでしょう。人間の親はいつでも子どもの成長のモデル、模範となります。さらに父は子どもにとって最も近い存在だということです。アブラハムが望みに逆らって望みを信じたというのは素晴らしい模範的面ですが、イシュマエルを生ませたという点では私たちに近い存在だということがわかります。私たち人間がやりそうなことです。神に一応の義理はたてているけれども、完全に信じきれずに適当にごまかしている姿ではないでしょうか。

 ですからパウロは、ここでアブラハムのことを書く時にどうしても罪の赦しについて書いておく必要がありました。それで詩編32編1-2節からダビデが罪の赦しを感謝して歌った詩を引用しています。「(6-8節) 同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。『不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。主から罪があると見なされない人は、幸いである。』」アブラハムは神に対して不信の態度をとったことがあるのですから、決して私たちと質的に違う超人的な人間ではありませんでした。しかし、そのような人間を神は赦してくださり、罪の縄目から解放して義人として造り変えてくださったのです。

 前に戻りますが、4節5節には大切なことが書かれています。「(4-5節)ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」働く人が報酬を受けるというのは、社会では当然のことです。しかし信仰をそういうふうに考えるとしたら見当違いだということです。信仰は、行いとして神に提供する労働のようなものではないということです。もし神のために働く労働として信仰を考えるならば、その報酬として救いが与えられるという条件付きの関係になってしまいます。それ恵みではありません。しかし「働きがなくても、その信仰が義と認められます」とあるように信仰が大事なのです。神に義と認められる信仰は、私たちを赦して義としてくださる神を信じる心です。罪ある者を罪なき者とみなしてくださる神の恵みを受け取る心です。信仰というのはひたすら神の愛と赦しを受け入れ、受け取る心なのです。

 私たちはキリストの贖いを信じて今救いの人生を歩ませていただいています。これが福音です。そして福音が福音であるのは、すべての人への無条件の救いだということです。何かをしたからではありません。もし救われるために何か条件を出すならばそれは律法になってしまい、恵みではなくなります。9節から12節のところには、割礼の有無について書かれていますが、割礼を受けていてもいなくても、選民ユダヤ人であろうが異邦人であろうが、神の救いは全く平等で無条件であることが書かれています。救いの根拠は神の愛を信じること、キリストの贖いを信じることだけです。これは神の賜物であり、恵みの約束です。

「(13-14節)神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。」とあるとおりで、パウロは非常に的確に信仰について説明しています。

 私たちは素直に神を信じることによって神の前に立つことができるのです。行いではありません。キリストの十字架と復活こそが私たちの贖いと救いのためであることをしっかりと受け取るならば、私たちは神に喜ばれる信仰に生きることができるのです。頭でっかちになってしまった私たち人間は難しい事ばかり考えますが、神への信仰は本当にシンプルです。ただ神の愛と赦しを受け取るだけです。新しい週も神の愛の御手が私たちを助け導いておられることを信じ、感謝して歩ませていただきたいと願っております。

(牧師 常廣澄子)