詩と賛美と霊歌によって

2023年9月24日(主日)
主日礼拝『 賛美礼拝 』

エフェソの信徒への手紙 5章15~20節
牧師 常廣澄子

 本日は賛美礼拝ということで、ハンドベルの皆さまによる讃美歌の演奏、また三人の方々には賛美とお話をしていただきました。皆さま、本当にありがとうございました。今私達は本当に豊かな時間を過ごしています。神を賛美する時、賛美する者も聞く者も、共にその心が神に近づけられ、神の高みに引き上げられていくからです。本日の招詞(詩編66編1-4節)では「神に向かって歌え」と呼びかけられました。また詩編33編1節には「主に従う人よ、主によって喜び歌え。主を賛美することは正しい人にふさわしい。」とあります。これは、「時々は主を賛美しなさい」というのではなく、「賛美こそ信仰者の生活の中心になるべきものである」ということなのです。

 ただ今、エフェソの信徒への手紙のみ言葉を読んでいただきました。今お読みしたところの少し前には光と闇のことが書いてあり、だいたいどういうことが書いてあるかといいますと、人間の生活は、神と共に光の中にいるのか、罪によって暗い闇の中にいるのかどちらかである、ということなのです。私達は、神を知らずに罪の中にいた時は暗い道を歩んでいましたが、そこから救われて主をほめたたえる光の生活に導かれたのです。そこで先ず言われていることは、「歩き方に注意しなさい」ということです。もっとわかりやすく言うと「どうやって歩いていくかに気をつけなさい」ということです。気を付けていないと私たちの歩みはどんな方向に反れていくか分からないのが今の世界の現実です。神を信じる者とされていても、再びもとの暗い生活に舞い戻っていく誘惑はだれにでもあります。その誘惑に負けずに光の中を進むためには、愚かな者ではなく賢い者とならねばなりません。「(15節 )愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。」その理由を「今は悪い時代だからだ」と言っています。

 そして「(16節)時をよく用いなさい。」と勧めています。これは「時を買いなさい。」ということです。誰でも何か欲しいものがあると、頑張ってお金を貯めて買いに行くのではないでしょうか。それと同じように、この「時」というのは、何かをするために定められた時です。多くの時間の中からそれを「選び取りなさい」といっているのです。私達の人生は、時の流れと共に次から次へと流れ去っていきます。ぼーっとしていると、何もしないままに一日や一週間がすぐに過ぎてしまいます。

 私達に与えられた多くの時間の中には、しなければいけない事柄がたくさんあります。またそれらの時の中には、神が私達に御心を行うようにと与えてくださった時もたくさんあるはずです。大事なのは、それを見つけ出して、はっきりそれと受けとめて、その時を自分のものにするかどうかです。多くの時間がある中で、今はその時だと思ってその時を買うのです。買い取るのです。何によって買い取るのでしょうか。それは信仰です。信仰によって愚か者にならないで、神の御心が何であるかを知って行動するということです。そして贖われた者にふさわしい生活をするのです。これが光の子の生活です。

 ところがここで突然、「(18節)酒に酔いしれてはなりません。」と言う言葉が出てきます。なにか唐突な感じがします。酒に酔いつぶれてしまってはいけないということは、多くの人がわかっていることです。その後に「それは身を持ち崩すもとです。」とあるように、昔も今も酒で身を滅ぼした人が少なくなかったようです。当時は何かというとお酒を飲んだようです。それは必ずしも悪い意味ではありませんでした。お酒を飲んで元気になったのです。信仰者であろうと、人間は生きている限り何らかの形で悩みや心配事が絶えません。できればそれらを追い払って心が平安で満たされることを望みます。それで、目の前の問題やいろいろな悩みを何もかも忘れて、心が満たされた思いになりたいがために、酒の力を借りてしまう人がいたのです。

 酒による乱行がいけないことはもちろんですが、それよりも、信仰で満たされないからといって酒を飲むことは問題です。世の中にはうさばらしをするために酒を飲む人がたくさんいますが、この場合は、信仰によって満足せられるべきところを酒でごまかしているというような状況です。そこでパウロが強く語っているのが18節後半から19節です。「むしろ、霊に満たされ 、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」

 神を信じるということは、心の中が変化していくことです。心の方向が変わっていくのです。人の方を向いて生きていたのが、神の方を向くようになります。そして神に近づいていく者には上から愛と力が与えられます。それが聖霊です。パウロが言いたいのは聖霊に満たされて生きていきなさいということです。私達に与えられている時を吟味しながら選び取り、買い取って、その上で聖霊に満たされたならば、それがどんな生活になるかは明らかです。それは神を賛美して礼拝する生活です。そこでパウロは聖霊に満たされて、「(19節) 詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」と語っているのです。

 お酒を飲むと歌を歌い出す人がいます。それはとても自然なことです。また、聖霊に満たされた人が主を喜んで歌い出すのも自然なことです。心が平安であり、解放されているからです。考えてみると怒りながら歌う人はあまりいません。私達は家でも教会でもどこにいても、礼拝の時はもちろん、何かしている時でも(例えば掃除しながら、料理しながら)讃美歌を歌います。なぜ歌うのでしょうか。私達の中には音楽の得意な人好きな人もいるでしょうが、歌を歌うと音が外れてしまう人もいます。しかしそういうことは問題ではありません。讃美歌は人に聞かせるものではないからです。自分に与えられた喜びや感謝、祈り、あるいは悔い改めを神に向かって歌っているのです。上手でも下手でも、みんながそれぞれに心から神を喜び、感謝や祈りを歌うのです。その心に主が伴われている証拠です。

 パウロはそのことを勧めているのです。19節の「詩編と賛歌と霊的な歌」については、それぞれに当時の歴史的状況で何らかの解釈がありますが、たとえそれらがどのような歌であったとしても、今の私達には問題ではありません。それよりも私達が聖霊に満たされて賛美するということの方が大切です。私達は神に向かって心から歌いたい、神を賛美したいと思ったことがあるでしょうか。パウロはここで信仰の事をいろいろ書いていますが、彼が言いたかったことは本当の礼拝のことです。心を尽くして神に賛美を捧げる礼拝のことです。「(20節)そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。」これがパウロが言う礼拝の結論です。また、これが信仰生活の源であり、信仰生活の中心にあるものです。聖霊に満たされて、神の恵みを語り合い、賛美して、感謝する、これらは皆つながっています。私達の生活がこのように聖霊に満たされているなら、その心は主の平安に満たされています。そこには賛美と感謝が満ち溢れているのです。私達一人ひとりにはそのような恵みの日々が与えられていることを心から感謝したいと思います。

(牧師 常廣澄子)