聖なる神の都

2025年4月6日(主日)
主日礼拝『主の晩餐』
ヨハネの黙示録 21章9~27節
牧師 常廣 澄子

 私たちは今、ヨハネの黙示録を読み進めていますが、この黙示録は決してわかりやすいものではありません。奇想天外な事が書かれていますからなかなか理解できません。漠然と読んだだけでは、何が書かれているのかわからないのです。いつも申し上げていますように、そもそもこの黙示録は普通の人が読んでもわからないように書いてあるからです。それはこの文書が初代教会時代にクリスチャンたちが迫害されていた時代に書かれたものだからです。イエス・キリストを信じていることがわからないようにいろいろカムフラージュして書かれているのです。けれども、私たちはここまで少しずつ、辛抱強く神の言葉を聞き取ろうと努力してきました。
 そしてこの黙示録はいよいよ大詰めに来ています。今朝お読みいただいたところは、天の都について書かれています。神の栄光に輝く、この天の都の幻を見せてくれたのは、七つの災いの満ちた七つの鉢を持つ七人の天使の一人です。黙示録では今までに、七つの封印の災い、七つのラッパの災い、七つの鉢の災い等々、神に逆らう人たちに下される恐ろしい災いが次々と記されてきました。

 「21:9 さて、最後の七つの災いの満ちた七つの鉢を持つ七人の天使がいたが、その中の一人が来て、わたしに語りかけてこう言った。『ここへ来なさい。小羊の妻である花嫁を見せてあげよう。』」この個所を読むと、以前にもよく似た表現があったことを思い出されると思います。17章1節の「 さて、七つの鉢を持つ七人の天使の一人が来て、わたしに語りかけた。『ここへ来なさい。多くの水の上に座っている大淫婦に対する裁きを見せよう』」と対照的に書かれているのです。17章では、当時ローマ皇帝が支配していたローマ帝国を大淫婦に例え、その国が審かれることが告げられていましたが、この21章では「小羊の妻である花嫁」としてキリストの教会が紹介されています。いくつもの災いを通り抜けたところに新しい世界が現れてきたのです。

 「小羊の妻である花嫁」この小羊とは神の小羊であるイエス・キリスト、つまり初めであり終わりである方です。この小羊の血で贖われた人たちはキリストの民として、夫のために着飾った花嫁として表されています。そしてさらにこの花嫁は聖なる都エルサレムとも呼ばれていて、いまや天から下って来るのです。「21:10 この天使が、“霊”に満たされたわたしを大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のもとを離れて、天から下って来るのを見せた。」これは、小羊キリストの花嫁であるキリストの民が、夫キリストと共に暮らすということです。教会はよく、キリストの花嫁というように表現されますが、ここではその関係が全世界の人々に広がっていくというイメージで描かれています。

 ここには、この神の都についての詳細な記述があります。「21:12 都には、高い大きな城壁と十二の門があり、それらの門には十二人の天使がいて、名が刻みつけてあった。イスラエルの子らの十二部族の名であった。21:13 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。 21:14 都の城壁には十二の土台があって、それには小羊の十二使徒の十二の名が刻みつけてあった。 21:15 わたしに語りかけた天使は、都とその門と城壁とを測るために、金の物差しを持っていた。 21:16 この都は四角い形で、長さと幅が同じであった。天使が物差しで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。21:17 また、城壁を測ると、百四十四ペキスであった。これは人間の物差しによって測ったもので、天使が用いたものもこれである。」

 それによると、この都の大きさは、長さも幅も高さも同じで一万二千スタディオンです。平面ではなく立体、それも立方体です。一スタディオンは185メートルですから(185×12000=2220000メートル)、一辺の長さは2220キロメートルになります。どれくらいかというと、何とこの長さは、日本列島の北海道の端から九州の南にある奄美諸島までの距離です。それを一辺とした途方もない大きさの巨大な都です。このような巨大な都が眺められるような場所はいったいどこにあるのでしょうか。10節で、天使がヨハネを連れて行った大きな高い山がどれほど高い山であったか、驚くばかりです。

 神の都の大きさはこのように人の知識をはるかに超えるものです。ここで私はパウロが書いたエフェソの信徒への手紙3章18-19節の御言葉を思い起こします。「3:18 また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、3:19 人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」ここには、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほど大きく、人の知識をはるかに超えたものであるかが書かれています。そしてその愛に満たされなさいと語っているのです。いったいその大きさはどうやって測るのでしょうか。どんな物差しを使うのでしょう。それは神の愛の中にいるからこそわかるものなのです。どんなに遠くまで神の御手が伸ばされていることか、その愛の長さがわかります。広がりがわかります。仰ぎ見ると気高い神の高さに気づきます。下を覗き見るなら、へりくだりと思いやりのイエスのお姿にその深さがわかります。神の愛の外側にいるだけではその大きさ(広さ、長さ、高さ、深さ)はわからないのです。

 さて黙示録21章にもどりますが、都の東西南北、各辺には三つの門、つまり全部で十二の門があって、十二人の天使が守っていました。そしてそこには十二部族の名前が刻まれていました。城壁の高さは百四十四ぺキスとありますから、およそ6メートル半です(1ぺキスは45cmですから、45×144=6480㎝)。また、城壁の土台にはキリストの十二使徒の名前が刻まれています。選ばれた民イスラエルからキリストの教会へと、聖書の出来事を土台として新しい都ができているのです。イスラエルの十二部族、十二使徒等のように十二という数字が何度も出てきますが、この十二は完全数です。聖なる都は、あらゆる国民や民族から成り立っている完璧で欠けることのないキリストの教会だということが表現されているのです。

 この都はたくさんの宝石でできています。「21:18 都の城壁は碧玉で築かれ、都は透き通ったガラスのような純金であった。21:19 都の城壁の土台石は、あらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイア、第三はめのう、第四はエメラルド、21:20 第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七はかんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十はひすい、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。21:21 また、十二の門は十二の真珠であって、どの門もそれぞれ一個の真珠でできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。」城壁の土台石には、いろいろな宝石がちりばめられています。ここにはたくさんの宝石の名前が書かれていますが、どれも当時、最高の美しさを誇っていた宝石なのでしょう。18節、21節には「都や都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった」とあり、21節には、十二の門はそれぞれ一個の真珠でできていたとあり、そのような純金や真珠があるのかとびっくりしてしまいます。荘厳に美しく光り輝いていることだけはわかりますが、この大きさや美しさは私たち人間の創造力をはるかに越えています。

 今まで外側から眺めていたヨハネは、ここからは都の中に入っていきます。22節から25節には、都の様子が描かれています。「21:22 わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。21:23 この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。」何と素晴らしい都でしょうか。

 まず、都の中には神殿がありません。「全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである」と。いつもどこにいても神が共にいてくださるので、神殿という特別な場所を造る必要がないのです。聖書の歴史をたどってみると、神殿はいつも信仰の中心にありました。ダビデ王の願いだった神殿は、その息子ソロモンによって造られました。しかしその神殿はバビロン捕囚の際に破壊されてしまいましたので、補修から戻ったイスラエルの民は真っ先にエルサレムに神殿を造りました。新約時代に入り、イエスがいた頃の神殿はヘロデ大王が造ったものです。何十年もかけて造られた立派な神殿でしたが、紀元70年のユダヤ戦争の時に破壊されてしまいました。

 このように人が造った神殿はいつか壊れてしまいます。イエスはエルサレム神殿の見事さを誉める弟子たちに言われました。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」(マルコによる福音書13章2節)また、シカルの井戸の傍では、水を汲みに来たサマリアの女にこう言われました。(ヨハネによる福音書4章)「4:21婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。4:23まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。」この御言葉のように、聖なる都では、私たちは神とキリストを直接礼拝します。そこにおられるからです。イエスが言われたように、すべての人は霊と真理をもって神を礼拝するのです。

 また、聖なる都にはそこを照らす太陽も月も必要ではありません。「21:23神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。」神の栄光とキリストの光がいつも都を照らしているのですから、そこには闇がありません。ヨハネによる福音書の冒頭1章に「1:4言のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。1:5光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」とあります。キリストは人間を照らす光です。そのキリストがこの世に来てくださいました。その光がこの世界に差し込んでいます。今まだ私たちは暗闇の世界に生きていますが、その中にあって主の光を見ています。私たちは主イエスを信じる信仰によって十字架から差し込んできた光を見ることができたのです。さらに素晴らしいのは「21:25 都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである。」神と小羊キリストの光に照らされている聖なる都は、城壁に囲まれていて、そこに十二の門がありますが、これらの門は決して閉まらないのです。普通は夜になると城壁の門は閉じられます。外敵を防ぐためです。しかしこの都には夜がありませんから門はいつも開いています。これはいつでも誰でも都に入ることができるということです。
 それで24節や26節にあるように、諸国の民が皆この都にやって来るのです。「21:24 諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて、都に来る。」「21:26 人々は、諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る。」今まで、諸国の民はサタンに惑わされて、神の怒りを招くみだらな行いをしていました。それらの人たちが都に来るのです。今まで地上の王たちは大淫婦バビロンとみだらな事をして、贅沢に暮らしていました。彼らは滅ぼされてしまうような人たちでした。そういう地上の王たちが、自分たちの栄光を携えて都に来るというのです。つまり、今まで獣や竜に従い、彼らを崇めていた人たちが、今では神とキリストに栄光を捧げるように変えられているのです。ここには、獣の惑わしから自由になり、罪から解放された人たちの姿があります。ここには汚れた者も、忌まわしいことを行ったり、偽りを言う者は誰もいません。皆、小羊の命の書に名前が書かれている人たちです。つまり神を信じる者へと変えられているのです。「21:27 しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者はだれ一人、決して都に入れない。小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる。」このように、聖なる神の都に入れるのは神を信じる人たちです。

 神と小羊キリストがいつも共にいてくださる聖なる神の都、そこには絶えず神の栄光が照り輝き、キリストの光が消えることのない明かりとなっています。私たちはいつの日かこの都に入ることが許されています。全世界の人々と一緒に手を携えて入ることができます。この都の門は決して閉ざされることがありません。ここに、私たち神を信じる者に与えられている大いなる希望があります。

 「さあ、見たことを、今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ」(ヨハネの黙示録1章19節)という神の言葉に促されて、ヨハネはこの黙示録を書き進めています。私たち信じる者のために天に備えられているものが何であるかを、ヨハネは一生懸命書き留めて私たちに語ってくれているのです。私たちは、まだこの暗闇の世界に生かされていますから、いろいろなことが起こります。望みを失い暗い心になることもたくさんあります。しかし、私たちに信仰を与えてくださったお方は、私たちを愛して導き、いつの日かそれを完成させてくださいます。失望せずに主を信頼して歩みたいと思います。人間を救う福音の言葉、主の約束の言葉はいつも私たちを励まし、力づけてくださいます。