コリントの信徒への手紙 一 12章12~27節 牧師 常廣澄子 パウロは、コリント教会の中に分派や党派があり、互いに対立し争っていることを耳にして心を痛めていました。そのことをこの手紙の冒頭(1章10-11節)で触れていますので、パウロにとってはその問題が並々ならぬ関心事であったことがわかります。そしてその対立や分争というのは、単なる立場や意見の相違というような次元のことではなく、互いに譲れないほどその人の人格に関わるようなものであったようです。つまり個々人に与えられている賜物に関わるものでした。
コリントの信徒への手紙一

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一つの体に多くの部分

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霊の働き
コリントの信徒への手紙 一 12章1~11節 牧師 常廣澄子 前回は、主の晩餐の持ち方で混乱していたコリント教会の人達に対して、パウロはその基本的な心構えを説いて正しく晩餐に与るようにと語りました。引き続いて今朝お読みした12章から14章にかけては、教会の中の秩序の問題、特に御霊の働きについてその根拠と意味を明らかにしようとしています。

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わたしの記念として行え
コリントの信徒への手紙 一 11章17~26節 牧師 常廣澄子 多くのプロテスタントの教会がそうであるように、私達の教会でも「バプテスマ」と「主の晩餐」という二つの礼典を大切に守っています。そして「主の晩餐」の礼典を執り行う時には、必ずこのコリントの信徒への手紙一の11章が読まれます。「主の晩餐」の場面は各福音書に書かれていますが、「主の晩餐」の礼典はこの御言葉に基づいて守られてきたからです。今朝は、この御言葉について学びながら、私達はどれだけの重みをもってこの御言葉を受け止めて「主の晩餐」に与っているのか考えていきたいと思います。

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すべてを神の栄光のために
コリントの信徒への手紙 一 10章23節~11章1節 牧師 常廣澄子 2018年の秋に、特別音楽礼拝(賛美:澤田ルツ子さん、ピアノ伴奏:玉川早苗さん)があり、その時、ラテン語「ソリ・デオ・グローリア!」日本語に訳すと「ただ神にのみ栄光!」という言葉を教えていただきました。神を信じる信仰によって数多くの素晴らしい音楽を世に出した、ヨハン・セバスチャン・バッハは、自分の作った曲の最後にその頭文字の「S・D・G」を書き残しているそうです。これは今日お読みした聖書個所で、パウロが語っている言葉に通じるものです。「(31節)だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」これは神を信じるすべての人が、その人生のモットーにしている言葉かもしれません。

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主の食卓につく者
コリントの信徒への手紙 一 10章14~22節 牧師 常廣澄子 コリントの信徒への手紙は、コリント教会に生じたいろいろな問題に対して、パウロが主の福音に基づいて適切に解答し、教え導いている実際的な手紙です。この手紙で扱われている問題は多岐にわたりますが、その一つひとつにパウロは率直に答え、指示を与えながら、福音の真理を明らかにしています。まさに福音の伝道者、また牧会者であるパウロの篤い思いがあふれている手紙だと思います。

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永遠に存続するもの
コリントの信徒への手紙 一 13章8~13節 牧師 常廣澄子 先週、私たちはイエス様の復活を喜び、祝い、感謝するイースター礼拝をお捧げいたしました。 本日は、先に天に帰られた方々を偲び、私たちもまたいつの日か神の身許でそれらの方々とお会いする日を思いながら、感謝の礼拝をお捧げしたいと思います。

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歴史からの教訓
コリントの信徒への手紙一 10章1~13節 牧師 常廣澄子 イースターを前にして、私たちは今受難節(レント)の時を過ごしています。私たちの救いのために神の御子が十字架に向かって進んでおられるのです。私たちの信じている神は、天の高みにおられてはるか遠くから私たちを見下ろされているような方ではなく、天から降って人間世界に飛び込まれ、ご自分の命さえも捨てることがおできになるお方なのです。そのような愛の神を信じて生きる者がどんなに祝福された者かを、今朝はコリントの信徒への手紙から見ていきたいと思います

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朽ちない冠
コリントの信徒への手紙 一 9章19~27節 牧師 常廣澄子 私たちは今、コリントの信徒への手紙を読み進めていますが、パウロがキリストの福音を自由に語っている姿を見るとほんとうに感動します。パウロが各地を訪問して、あらゆる人たちにキリストの福音を語っているのは、彼の持っている大きな人類愛であったと思いますが、ある意味で、それは自分のような反逆児にさえも現れてくださった復活のイエスに対する感謝の現れです。そして同時に、そのイエスを遣わされた神に対する負い目でもあったのではないでしょうか。ローマの信徒への手紙の1章14節には「わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。」というように「果たすべき責任」とまで言っています。パウロはキリストの福音を語ることでの様々な苦労を、キリストの十字架の苦しみ、あるいは自分が迫害してきたクリスチャンたちの苦しみに重ねていたのかもしれませんし、何よりもその働きをすることを、神の御前にあって大変光栄なことだと感じていたのではないでしょうか。

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自由にされた者
コリントの信徒への手紙 一 9章1~18節 牧師 常廣澄子 主イエスを信じる人は、自分を愛して受け止めていてくださるお方を知っていて、いつもその守りと導きを信じていますから本当に自由に生きることができます。現に主にあってのびのびと自由に生きておられるたくさんの素晴らしい方々を私は知っています。本日は9章を読んでいきますが、8章では偶像に供えられた肉についてパウロの自由な態度を見てきました。何を食べようと何も問題はないけれども、もし弱い人たちをつまずかせるようなことがあるのであれば、自分は喜んで肉を食べないと宣言したのです。この手紙を書いているパウロは、コリント教会が置かれている厳しく難しい問題を前にしているわけですがとても自由に語っています。自分でもそう言っています。「(1節)わたしは自由な者ではないか。」パウロのこの自由な思いや行動はどこから来るのでしょうか。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」(ヨハネによる福音書3章8節)の御言葉を思い起こします。パウロの自由というのは、このような主の御霊がなせる業なのだと思います。

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知識と愛
コリントの信徒への手紙一 8章1~13節 牧師 常廣澄子 この個所は、パウロがコリント教会から届けられた質問状に答える形で語っています。まず7章では結婚と独身をめぐる問題について語られていました。それに続いてこの8章では、偶像に供えられた肉を食べてよいかどうかという問題について語っています。これは単に食べるか食べないかということだけではなく、偶像に対してはどのように対応するかという信仰の問題であり、偶像に囲まれて暮らしている私たち日本人キリスト者にとっては実に身近で大切な問題だと思います。この個所は