イエスの荒野での誘惑

イエスのバプテスマの記事はルカ福音書には、わずか2節(3章21節22節)のみですので、罪のないイエスがなぜ、悔い改めのバプテスマをヨハネから受けられたのか、その経緯を、マタイ福音書3章13節~17節から確認しますと、イエスがヨハネの元に来られ、ヨハネにバプテスマを願い出られた、そのとき、「あなたがなぜわたしから」と、ヨハネはイエスのバプテスマを思い止まらせようとしました。しかしイエスはそれを振り切って、「今は止めないでほしい。正しいことはすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」と告げ、ヨハネはこれに従ってイエスにバプテスマを施したのです。

バプテスマのヨハネの働き

神による救済史を、三つに分けることがありますが、それは、「イスラエルの時」(旧約聖書の時代)、「キリストの時」、そして「教会の時」の三つです。そこにバプテスマのヨハネが登場したのは、「イスラエルの時」から「キリストの時」へ移ろうとしているその中間、すなわち“キリストの先駆者”(橋渡しをする者)として登場しました。

魂をゆだねる

新共同訳聖書ではこの段落のタイトルは「キリスト者として苦しみを受ける」となっています。お読みした4章12節から5章の終わり辺りまでは、キリスト者への迫害が感じられるような言葉が連なっているのです。今、私たちの社会全体を覆っているのは新型コロナウイルスという災いで、これは今世界に生きているすべての人間に共通の災害です。しかしこの個所では、「愛する人たち」と呼びかけていますから、この手紙の宛先(1章1節参照:ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地にいるキリスト者)の上に何らかの試練が及んでいたことがわかります。

神の恵みに生きる

神は私たち人間との関係を正しくすることを願っておられます。人が私をどのように評価しようとも、どんなに私が自信を無くして落ち込んでいようとも、死にたいくらい辛い時でも、神は言われるのです。「私はあなたのすべてを知っている。」「私はあなたを受け入れている。」「私はあなたを愛している。」「私はあなたと共にいる。」と。イエス・キリストへの信仰を持つなら、私の内にキリストが生きていてくださいます。私たちが真実でなくても神は絶えず真実なお方です。コロナ禍の中で大変厳しい毎日ですが、インマヌエルの主と共に生きていけますようにと願っております。

少年イエスの言葉

ルカによる福音書2章41節~52節から、少年期イエスのみ言葉を中心に「恵みのみ言葉」をお届けいたします。因みに、御子イエスさまについての幼児期から少年期までのエピソードを伝えております福音書は、このルカ福音書のみです。それは本書冒頭に記されておりますように、“順序正しく書き記す”ということに加えて、イエスさまの幼児期から少年期への成長の中に、旧約の時代から新しい時代への大きな移り変わりの出来事が確かにあったことと、さらにこのことが伝えるメッセージを読者が読み取ってほしい、との願いが込められています。

低きに下る神

この詩編は、イスラエルでは祭り、特に過越しの祭りの時に歌われていました。イエスが最後の晩餐の席で、弟子たちと過越しの食事をなさった時も、その始めにこの詩編113編が歌われたであろうと考えられています。113〜114編は過越しの食事の前に、115〜118編は食事の後で歌われたそうですので、マルコによる福音書14章26節に「一同は賛美の歌を歌ってから、オリーブ山へ出かけた。」とあるのは、おそらく115〜118編であろうと言われています。

二人の息子

今朝のみ言葉は、イエスがそのご生涯の終わり頃に語られた譬え話です。この話に入る前に、まずこれがどのような場面で語られた話であるかを考えてみたいと思います。23節に「イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。『何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。』」とあります。イエスは毎日神殿で教えておられたのですが、これを苦々しく見ていたユダヤ教当局者たちがいて、この話は彼らとのやり取りの中で語られたものです。

神の恵みの管理人

私たちは各々、その過程は様々でありますが、福音が告げ知らされたことによって神の御子イエスの贖いの御業を信じ、真の神を知ってバプテスマ(洗礼)を受けてクリスチャンとなりました。おそらく誰もが、その時の喜びと感動を覚えておられると思います。そして聖書のみ言葉に支えられ、教会や礼拝を大事にして生きていこうと決心したと思います。その初めの思いが変わらずにずっと続いていけば良いのですが、私たちの生活はそんなに単純なものではありません。人生の浮き沈みのように、信仰生活にも波があるのです。

不正な管理人

この個所はイエスのたとえ話の一つですが、これは誰が聞いても何か不道徳でずる賢い男の話のように思います。イエスはどうしてこのようなたとえ話をなさったのでしょうか。ご一緒に聞いていきたいと思います。まず「(1節)ある金持ちに一人の管理人がいた。」当時、エルサレムに住む金持ちの多くは、地方に農園を持っていて、自分の土地を小作人に貸し付けていました。そして僕たちの中から管理人を派遣してその管理と経営を委ねていました。つまり彼に全財産を任せていたわけです。ところがこの管理人は任されているのは主人の財産であるのを知りながら、それをまるで自分の物であるかのように自分勝手にやりたい放題に使っていたのではないでしょうか。たぶんそれが目に余ったので、部下の誰かが主人に言いつけてしまったようです。「この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。」と書かれているとおりです。

神殿で献げられたイエス

旧約時代を本当に信仰深く生きてきた人と、旧約時代から多くの預言者を通して預言されてきた、救い主メシアなるイエスさまとの出会いの出来事は、今現在のわたしたちの世界で起こっている、“古い年、苦難に満ちた年から、希望に満ちた新しい年への幕開け”、と理解することもできます。では初めから、皆さんと一緒にその出来事を辿っていきましょう。