コリントの信徒への手紙 一 15章35~58節 牧師 常廣 澄子今年のイースターは4月20日です。私たちは今、主イエスの十字架への歩みとその死を覚えながら、レント(受難節)の期間を過ごしています。そして遂にイエスの復活という喜びの時を迎えるのです。幸いなことに、私たちはコリントの信徒への手紙の中でちょうど復活について書かれている所を読んでいます。そのことを感謝したいと思います。
コリントの信徒への手紙一

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死に勝利する体

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キリストはすべての支配者
コリントの信徒への手紙 一 15章20~34節 牧師 常廣 澄子 およそ30歳頃になられたイエスが、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコによる福音書1章15節)と、神の国の訪れを携えて福音伝道に立ち上がられたように、復活の主から御霊を受けた弟子たちは、一つの確固たるメッセージを持って立ち上がりました。それは「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」(使徒言行録2章36節)ということです。それはイエス・キリストの十字架と復活の福音でした。それを信じる信仰の力が、信じる者たちに驚くべき出来事を引き起こしました。先週、使徒言行録9章で読んだ、ペトロがリダとヤッファで行った素晴らしい出来事は、その一つです。

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復活の福音
コリントの信徒への手紙 一 15章1~19節 牧師 常廣澄子 私たち主を信じる者は毎日聖書を読みます。聖書が私たちの人生を導く指針であるからです。
テモテへの手紙二3章16節には、「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」と書いてあります。聖書が神の言葉であるということを語っているのですが、もう少し具体的に考えてみたいと思います。

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神は平和の神
コリントの信徒への手紙 一 14章26~40節 牧師 常廣澄子 今朝もこうして皆さま

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互いに高めあう
コリントの信徒への手紙 一 14章1~25節 牧師 常廣澄子 この「コリントの信徒への手紙」では、コリント教会において実際に起こっていたいろいろな問題を聞いたパウロが一つひとつ丁寧に論じています。どういうことが論じられてきたのかは、今までに少しずつ語ってきました。12章ではパウロは様々な「霊的な賜物」について語りました。そしてそれらの賜物の間には何ら差別がないことが強調されていました。教会ではどのような人もどのような働きもすべて主にあって等しく大切なのです。続く13章では意義深い「愛の賛歌」を歌いあげています。そのパウロがここ14章にきて異言のことを語っています。しかも「愛を追い求めなさい」という書き出しで書き始めています。つまり今まで語ったことを受けて話しているのです。

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愛は滅びない
コリントの信徒への手紙 一 12章31節~13章13節 牧師 常廣澄子 皆さま、新年明けましておめでとうございます。 元日から、能登半島の大きな地震や飛行機の事故などがあり、今年はいったいどんな一年になるのだろうかと希望よりも不安の方が大きくなるような2024年のスタートとなりましたが、今私たちは主にあって新しい年を迎えることができました。まずそのことを感謝したいと思います。そして、厳しい世界情勢、社会状況の中ではありますが、本年も主の御言葉に支えられ、導かれて歩んでまいりたいと願っております。

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一つの体に多くの部分
コリントの信徒への手紙 一 12章12~27節 牧師 常廣澄子 パウロは、コリント教会の中に分派や党派があり、互いに対立し争っていることを耳にして心を痛めていました。そのことをこの手紙の冒頭(1章10-11節)で触れていますので、パウロにとってはその問題が並々ならぬ関心事であったことがわかります。そしてその対立や分争というのは、単なる立場や意見の相違というような次元のことではなく、互いに譲れないほどその人の人格に関わるようなものであったようです。つまり個々人に与えられている賜物に関わるものでした。

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霊の働き
コリントの信徒への手紙 一 12章1~11節 牧師 常廣澄子 前回は、主の晩餐の持ち方で混乱していたコリント教会の人達に対して、パウロはその基本的な心構えを説いて正しく晩餐に与るようにと語りました。引き続いて今朝お読みした12章から14章にかけては、教会の中の秩序の問題、特に御霊の働きについてその根拠と意味を明らかにしようとしています。

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わたしの記念として行え
コリントの信徒への手紙 一 11章17~26節 牧師 常廣澄子 多くのプロテスタントの教会がそうであるように、私達の教会でも「バプテスマ」と「主の晩餐」という二つの礼典を大切に守っています。そして「主の晩餐」の礼典を執り行う時には、必ずこのコリントの信徒への手紙一の11章が読まれます。「主の晩餐」の場面は各福音書に書かれていますが、「主の晩餐」の礼典はこの御言葉に基づいて守られてきたからです。今朝は、この御言葉について学びながら、私達はどれだけの重みをもってこの御言葉を受け止めて「主の晩餐」に与っているのか考えていきたいと思います。

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すべてを神の栄光のために
コリントの信徒への手紙 一 10章23節~11章1節 牧師 常廣澄子 2018年の秋に、特別音楽礼拝(賛美:澤田ルツ子さん、ピアノ伴奏:玉川早苗さん)があり、その時、ラテン語「ソリ・デオ・グローリア!」日本語に訳すと「ただ神にのみ栄光!」という言葉を教えていただきました。神を信じる信仰によって数多くの素晴らしい音楽を世に出した、ヨハン・セバスチャン・バッハは、自分の作った曲の最後にその頭文字の「S・D・G」を書き残しているそうです。これは今日お読みした聖書個所で、パウロが語っている言葉に通じるものです。「(31節)だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」これは神を信じるすべての人が、その人生のモットーにしている言葉かもしれません。