新約聖書

手の萎えた人のいやし

「ある日、イエスが教えておられるとき、長年、中風を患っていた人を、仲間内で床に乗せイエスさまの許に運んで来ましたが、家の中に入ることができず、屋根から吊り降ろして、イエスの前に辿り着いたのをイエスはご覧になって、『人よ、あなたの罪は赦された』と言われたことで、一悶着(ひともんちゃく)はあったものの、更に、イエスさまの癒しと、励ましのお言葉によって、その中風の人が癒されたことに、人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた」と、5章17~26節にありました。

苦難の中の慰め

今朝お読みした個所は、新共同訳聖書では「苦難と感謝」というタイトルになっていますが、ここには「苦難」と「慰め」という言葉が何度も出てきます。コリントの信徒への手紙はパウロによって書かれた手紙ですので、背景にはパウロが体験した様々な出来事があり、その体験を通して得たキリストへの信仰の恵みが語られているのです。

断食問答

ルカによる福音書からの説教を続けておりますが、本日箇所の5章33節に入りますと「人々はイエスに言った。『ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。』」と、唐突な入り方をしています。そして、その中心テーマは「断食」です。因みに直前の段落(前回の説教箇所)では、“罪人と共に食事をすること”が挙げられていました。すなわち、この両者共に食事を巡っての事柄です。さらに前後二つの段落の“流れ”から見ても、本日箇所は前の段落から続いている一つの大きな段落である、と言われています。さらにもう一つ、この大きな段落は、共観福音書すべてに共通している、“大きな問答集の中の一コマ”でもあります。

主と共なる生と死

パウロは「(8〜9節)わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」というように、イエス・キリストを信じて生きる者は、たとえ途方に暮れるような、八方塞がりの事態が起きても絶望しなくて良いのだ、主の助けがあって必ず出口があるのだ、苦難があっても決して見捨てられた訳ではない、打ち倒されたように思えても起き上がれないほどに決定的なことではないのだ、キリストにつながってさえいれば、必ず再び立ち上がって歩みだすことができるのだと語りかけているのです。

エフェソの信徒への手紙

心の目を開けて

今朝はエフェソの信徒への手紙1章にある「パウロの祈り」の言葉を通して神に聞いていきたいと思います。パウロは、今朝の聖書箇所の前の部分で、神の恵みの豊かさや素晴らしさを讃え、真理の言葉、すなわち救いをもたらす福音を聞いて神を信じ、キリストに希望を置いて生きる者は神の栄光を讃えて生きるのだと、格調高い賛美の言葉を語っています。そしてその後で今朝の御言葉の祈りの言葉が続くのです。パウロは神の力と御業を賛美しながら祈っているのです。

罪びとを招く主

本日の説教箇所は、主イエスさまが自ら出て行って、徴税人のレビを招いて弟子とされる出来事から始まっております。なお、この記事は共観福音書すべてにありまして、マタイによる福音書9章9~13節、そして、マルコによる福音書では2章13~17節にあります。ときにはこれらも参考にしながら、ルカによる福音書ならではの独特で、豊かなメッセージをご一緒に聞き取って参りましょう。

人生の堅固な足場

まずこの手紙が二度目の手紙であることを示してから、この手紙を書いた目的を語っています。それは「(1節)あなたがたの記憶を呼び起こして、純真な心を奮い立たせたいから」「(2節)また聖なる預言者たちがかつて語った言葉(旧約聖書全体)と、あなたがたの使徒たちが伝えた、主であり救い主である方の掟(イエスの福音)を思い出してもらうため」だと言います。あなた方が信仰に入った時の純真な心を思い出し、教えられていたことをもう一度思い起こして主の再臨を待ち望む生活をしてほしいということです。

ヘブライ人への手紙

仮住まいの者

ヘブライ人への手紙は「手紙」という題になっていますが、中身はむしろ「説教」というべきもので、それが手紙の形で届けられているのです。この手紙は小アジア(今のトルコ)の各地に住んでいたユダヤ人キリスト者に宛てて書かれたものだと考えられています。当時、キリスト教徒はユダヤ教とは異なる教えであると考えられ、ローマ皇帝を礼拝せず、キリストだけを主として崇めていることを非難され迫害されていました。そしてその厳しい迫害のために、キリストを信じている者たちの中には、信仰を捨てる者が現れたり、教会の集まりを止めたりする人々が出てきたのです。

罪の赦し 病の癒し

ルカによる福音書からの説教が続いておりまして、本日の説教は、標題の通りですが、直前までの流れの大筋を確認しますと、ガリラヤ伝道たけなわの中で、主イエスはカファルナウムにおられたとき、さらに巡回宣教の拡大の抱負を語られました(4章43節)。そして、漁師のシモン・ペトロ、ゼベダイの子ヤコブ、ヨハネたちを弟子として招かれ(5章1節~11節)、さらに本日箇所の直前では、“重い皮膚病の人の癒し”(5章12節~16節)をされ、そして、本日箇所へと進んできました。

真理の道に留まる

今は、新型コロナウイルスまん延ということで、社会も人間関係も大変不安定な状態にあります。このような時こそ私たちは、いろいろな考えに惑わされることなく、神が私たち人間に求めておられることをしっかりと心に留めて生きていくことが大切ではないでしょうか。人々が集まって共に主なる神を礼拝することができなくなり、お互いの信仰を分かち合ったり励まし合ったりする機会が少なくなってくると、人間の心は寄りどころを失って不安定になってきます。そのような時に、もし優しい言葉をかけて近づいてくる人がいたら、その人に気を許してしまい、その人が言うことを信じてしまうかもしれません。それがたとえイエスの福音とかけ離れていたとしても、弱くなっている心ではそれに気づけずに、イエスの道から外れてしまうことが起きるかもしれません。ペトロの時代には、実際にそのようなことが起こっていたのです。