喜びにあふれる旅

マタイによる福音書 2章1〜12節

 クリスマスおめでとうございます。アドベントクランツのろうそくが4本灯り、本日は神の御子イエス・キリストの誕生を祝う喜びの礼拝です。日本を含む地球の北半球ではクリスマスは冬の寒い季節にあたりますが、この季節は冬至に近くて夜の闇の時間が長いですので、光にあふれたクリスマスは何か明るく暖かいものが感じられます。実際、神が人間世界においでになったという到底考えられないくらい驚くべき出来事、感謝してもしきれないほどの素晴らしい出来事なのです。

 以前は教会のクリスマスと言えば、どこの教会でも子どもたちによるクリスマス物語が演じられました。教会学校では子どもたち一人ひとりにマリアやヨセフ、羊飼い、天使、博士等々、配役が決められ、家族ともども楽しい祝会が開かれました。子どもたちが大勢いた時は、天使と羊の役がたくさんになり、衣装作りが大変だったことを思い出します。今は少子高齢化社会となり、子どもの数が少なくなってきたことと、他に魅力的なことが増えてきたせいでしょうか、教会学校に子どもたちが集まって来なくなりました。たいへんさみしく残念に思っています。またいつか子どもたちがたくさん集まる教会になりますようにと祈り願っています。

 本日のみ言葉は、そのクリスマス物語のハイライト、お生まれになった御子イエスのところに博士たちがお祝いにやって来た場面です。ルカによる福音書(2章参照)では、イエス誕生のお祝いにやって来た者として羊飼いたちのことが書かれていますが、今朝お読みしたマタイによる福音書では遠い東の方から占星術の学者たちがエルサレムに来たことが書いてあります。口語訳聖書では「博士たち」で慣れ親しんでいましたが、お読みした新共同訳聖書では「占星術の学者」となっています。原語(ギリシア語)のマゴスは英語のマジックの語源ですが、魔術師や占い師を意味していたようですから、原語の意味に近くなってきました。

 学者たちは星に導かれて東の方からやって来たと書かれています。東の方とはどこなのでしょうか。ユダヤの国(イスラエル)から見て東の方にある国は、現在ではシリアやヨルダンですが、当時はアッシリアやバビロン、ペルシアの国がありました。これらの国は皆、イスラエルの国を脅かし、侵略して征服したりした大きな国です。ユダヤの人たちから見れば、友好的とは言いかねる憎むべき国々でした。しかし学者たちはそのような所からやってきたのです。

 この学者たちは占星術、つまり星占いを仕事にしていた人たちでした。当時は天文学も今ほど進んでいませんでしたし、現代のように天体観測ができる精巧な機材もありません。彼らが毎日空を眺めていたのは、太陽や月や星の動きを見て運勢判断をしていたようです。もちろん神の創られた天体の動きは神の摂理で動いているわけですから、その動きで運勢判断するのは間違っています。真の神を信じている者はそういう占いの言葉にとらわれることはありません。

 しかし、彼らは真の神については何も知らない国に住んでいたのです。その彼らがエルサレムにやって来て、何と自分たちの王でもないのに、「(2節)ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」と言って探しているのです。これはまったく不思議なことではないでしょうか。

 東の方から来た彼らは、長い苦しい旅を経てやっとユダヤの国に着いたのです。どうして彼らはそのような困難な旅をしてまで、自分たちの王でもないユダヤ人の王の誕生を知って拝もうとしに来たのでしょうか。その理由はどこにも書かれていないので、想像する以外にはないのですが、彼らは、毎日観察していた空に不思議な星が昇って来るのを見たのです。そして彼らの学問や研究の成果でしょうか、それはユダヤの国に王が生まれたしるしだと読み解くことができたのでしょう。また、自分たちは選ばれた民ではないけれども、どこかでユダヤの人々が信じている神こそが本当の神ではないだろうかと思っていたのかもしれません。彼らはこの王の誕生をただユダヤ人世界だけに限るものと考えたのではなく、天の星までも動かして伝えるような世界的な王、つまりすべての人間のための王だと理解したのかもしれません。

 また、彼らは日々人や国の運勢を占っている自分たちを顧みて、自分たちのやっていることは果たしてこれで良いのだろうか、人や国の運命までも左右するようなことを言う力が自分たちにあるのだろうかと思っていたのかもしれません。そしていつも自分たちの魂の故郷である神について考え、自分たちの真の神を求めていたのではないでしょうか。ですから、普通ではない天体の動きを見た彼らは、お生まれになったお方はこの世界の本当の王に違いない、それならば是非とも行ってその王にお会いしたいと思ったのでしょう。そういう憧れと期待の心に駆り立てられての旅だったのではないかと想像いたします。

 さて、遠いユダヤの国への旅は、徒歩で行くわけにはいきません。電車も自動車もないこの時代の乗り物はラクダだったのでしょうか。クリスマス物語の絵本にはラクダに乗った三人の博士たちが描かれています。学者たちの人数はどこにも書いてないのですが、御子イエスへの贈り物が黄金、乳香、没薬と三つ書かれているので、三人であったのだろうと推測している説が多いのです。しかし宝の箱は一つのようですから、三人だと確定するわけにもいきません。東方の伝説では学者たちの数は12人になっています。このところはいろんな想像が働いて、学者ではなく王であったり、それぞれに名前がついていたり、「アルタバン物語」のように多くの美しい童話や物語になっています。

 長い旅の末やっとユダヤの国の都エルサレムに着いた学者たちは、方々訪ねまわります。「(2節)ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」本来ならば、王となるべき赤ちゃんは王の宮殿で生まれますが、宮殿にいたヘロデ王にとっては寝耳に水の言葉でした。彼はこれを聞いて「不安を抱いた」というのです。自分の地位を脅かす者の存在を徹底的に抹殺してきたヘロデ王にとっては喜びどころではなかったのです。エルサレムの人たちも皆同じように不安を抱きました。それはこの残忍な王が不安のあまりユダヤ人にどのように当たり散らすだろうかと怯え切っていたからです。自分たちの王が生まれる(既に生まれている)というニュースが喜びではなかったということは、イエス誕生の象徴的な出来事です。

「(4〜7節)王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」救い主イエスがお生まれになることは、このように預言書(ミカ書5章1節)に書かれていました。祭司長や律法学者たちからそのことを聞いたヘロデ王は「(7〜8節)そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、『行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう』と言ってベツレヘムへ送り出した。」

 ヘロデ王はまことしとやかに学者たちからイエスの居場所を聞き出して、殺害しようとしていたのです。さらにここで驚くのは、祭司長や律法学者たちです。彼らは自分たちのための王、待望のメシアが生まれたことを知らされているにも関わらず、その王を迎えようとはしなかったのです。「メシアの誕生はベツレヘムだと預言されています」と人には教えましたけれども、自分たちがそこに行こうともしないし、喜ぶこともなかったのです。彼らは神の言葉である聖書を調べて、何でも論じて教えるだけの知識を持ちながらも、その真理に従おうとはしませんでした。

 これは今の私たちにとってもいろいろ教えられるところではないでしょうか。町の中にあふれている美しい装飾やクリスマスセールやプレゼント商戦に対して、本当のクリスマスというのは、これこれしかじかですよと聖書の話を持ち出すことはできます。しかし本当に大切なのは、主イエスの誕生を自分の救い主がお生まれになったこととして喜び感謝する心があることです。

 学者たちは、祭司長や律法学者たちのような冷ややかな態度とは違いました。神のなさる奇跡に感動しているのです。「(9〜10節)東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」ヘロデの宮殿を出た学者たちを、あの星がまた現れて、先へ先へと進んでベツレヘムのイエス誕生の家まで導いてくれました。そして遂に御子イエスとお会いすることができたのです。その時、彼らは喜びにあふれました。自分たちの住んでいた東の方の国からここまで、ずっと先立って導いてくれた星が今、イエス誕生の家の頭上で光り輝いているのを見て感動し、心から喜んでいるのです。

 旅がどのくらいの期間であったかわかりませんが、学者たちには時には不安が襲ったかもしれません。本当の王に会いたい一心で旅立った彼らの行き先は、ただ星の導きに従っての歩みでした。本当の王に会えば、自分たちに何かが起こると期待し、それを信じていましたから、旅の途中でどんなことが起きても、ひるむことなく旅を続けられたのです。そして星はもう先には進みませんでした。御子イエスのお生まれになった場所の上で留まったからです。「(11節)家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」学者たちは、とうとう救い主イエス誕生の家にまで導かれました。彼らはひれ伏してこの幼子を拝みました。そして今まで占星術の仕事のために大事にしてきた宝物の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を捧げたのです。黄金は王への贈り物、乳香は祭司への贈り物、没薬は死者への贈り物でした。

 学者たちは自分たちの王、本当の救い主が見つかったのですから、もうこれらの尊い宝物など惜しいとは思わなかったのです。ついに到達すべきところに着いた喜びに心が満たされていたからです。パウロがフィリピの信徒への手紙(7〜8節)で語っている言葉を思い出します。「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」

 先ほども言いましたように、学者たちは占星術、つまり占い師であり魔術師でもありました。何かを占ったり、まじないをして病気を治したりしていた学者たちにとっては、黄金、乳香、没薬はそのための道具でもありましたが、今や本当に仕えるべき王、本当の救い主にお会いしたので、もうまじないや占いをする必要がなくなってしまったのです。主イエスがそれらを受け取られたのです。そしてこれらはイエスの地上でなされた働きに誠にふさわしいものでした。イエスがやがて真の王、完全な大祭司、最高の救い主になることを予告していたかのようです。

「(12節)ところが、『ヘロデのところへ帰るな』と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」学者たちは夢で告げられたように、来た道とは違う別の道を通って自分たちの国に帰って行きました。道々、学者たちは自分たちが以前のようではなく、変えられていることに気づいたと思います。心に主の光が灯ったからです。来る時とは違って、学者たちは明るく朗らかな喜びに満ちて新しい旅に出発したのです。私たちも真の主にお会いする時、本当の喜びと平和をいただきます。クリスマスは恵みの時です。どうかすべての人を愛して、ご自分の独り子をも惜しまずにこの世に送ってくださった神の愛を知って、心から感謝できる人生の旅へと導かれますよう心から願っております。

(牧師 常廣澄子)