2022年05月

わたしに倣う者に

コリント教会では「私はパウロにつく、私はアポロに、私はケファに。」という争いがありましたが、それもまたこの問題に関わることです。パウロから見れば「私はパウロにつく、私はアポロにつく」と言っていること自体が、自分を目立たせようとし、自分を正当化しようとしていることに過ぎない、そういう党派心もまた自分を偉く見せようとしていることだというのです。そのリーダーが自分と親しい者だと言っていることだからです。ですから3章18節でパウロは「あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。」と勧めています。言い換えれば、自分が正当な一人前の人間だと思っている人は、一人前の人間になるために愚かな者になりなさい、ということです。パウロは人間の評価や判断よりも神の思いを大事にしていました。それで4章の始めで、私を裁くお方は主である、人間を義とされるのは主なる神だけだ、ということを語っているのです。

人間の不義

人間とはいったいどういう生き物なのでしょうか。過去の多くの戦争で何度も学んだはずですのに、今のこの時もロシアとウクライナの戦争が続いています。そしてこれはこの二ケ国だけの戦争ではなくて、世界中の国々が何らかの形で関わっています。人間が開発した科学技術によって、戦争の様子が逐一報道されていますが、殺されていく多くの兵士や市民たち、特に悲惨な女性や子供たちの姿に心を動かされない人はいないと思います。過去の体験を思い出して戦慄している方もおられるでしょう。この世界は今、本当に罪に満ちています。神は人間に「殺してはならない」と言われているのに堂々と殺人が行われ、「盗んではならない」と言われているのに自分のものにしていく侵略が行われているのです。当事者にとってはそれなりの理由があるのかもしれませんが、神が私たち人間に求めておられる姿でないことだけははっきりしています。

婚宴に招かれる人

イエスがこのたとえを語られたのは、過越祭が始まろうとしているエルサレムの神殿の境内です。ローマ帝国に支配されていたユダヤの人たちは、毎年この時期になると愛国心が高まり、独立への希望が燃え上がっていました。その期待は、ロバに乗ってエルサレムに入場したイエスに向けられていましたが、みんながそれを喜んでいたわけではなかったのです。群衆の期待が高まれば高まるほど、ユダヤ教の指導者である祭司長や律法学者たちは、嫉妬と妬みでいらだち、怒りを感じて、イエスを殺そうとしていたのです。一方では歓喜の喜びがあり、その陰には殺意が潜んでいる状況の中で、イエスはこのたとえ話をなさったのです。分かる人には分かるけれども、ある意味では一種の謎のようなものですから、深い意味が分からない人もいたと思います。

来るべき方

本日も、ルカによる福音書からのメッセージをご一緒に聞いて参りましょう。本日箇所の冒頭、18節から19節bには「ヨハネの弟子たちが、これらすべてのことについてヨハネに知らせた。そこで、ヨハネは弟子の中から二人を呼んで、主のもとに送り、こう言わせた。」とあります。ここでのヨハネとは、勿論、バプテスマのヨハネのことです。そして“これらすべてのこと” とは、直接には7章に入ってから、本日箇所の直前までに示されております、二つの出来事であり、またさらに、それより前の箇所に記されている、数々の出来事をも含んでいることが、これから先を読み進めていきますと分かります。

主の業を守り続けよ

今朝は七つの教会の一つ、ティアティラにある教会に宛てた手紙を通して、神の言葉を聞いていきたいと思います。「(18節)ティアティラにある教会の天使にこう書き送れ。」ティアティラという地名を聞いて、皆さんはすぐに使徒言行録16章11〜15節に書かれていることを思い浮かべられたのではないでしょうか。そこにはパウロが聖霊に導かれてマケドニア州のフィリピに行った時のことが書かれています。そこでパウロが主の福音を語っていた時、集まった人たちの中に、ティアティラ市出身の紫布を商うリディアという女性がいたのです。当時紫布を扱うのは上流階級の人であったと言われています。彼女は神を崇め、一家をあげてバプテスマを受けて信仰に入りました。そして神に仕えてフィリピの教会建設に大きな力となったのです。このリディアの出身地であるティアティラがこの手紙の舞台です。