永遠に存続するもの

2023年4月16日(主日)
主日礼拝『 召天者記念礼拝 』

コリントの信徒への手紙 一 13章8~13節
牧師 常廣澄子 

 先週、私たちはイエス様の復活を喜び、祝い、感謝するイースター礼拝をお捧げいたしました。
本日は、先に天に帰られた方々を偲び、私たちもまたいつの日か神の身許でそれらの方々とお会いする日を思いながら、感謝の礼拝をお捧げしたいと思います。

 昨年から、ついこの間まで、私たちは身近な方々を相次いで天にお送りいたしました。人間は生まれたら必ずいつかは死ぬものとわかってはいますが、愛する家族や友人や親しい方を亡くすということは大変寂しく悲しいことです。この世での最後のお別れの時を過ごしながら、きっと誰もが人は死んだらどうなるのだろうと考えられたと思います。これはすべての人間が共通して抱いている問題だろうと思います。先ず神はいるのだろうかと考えます。そして人間の霊魂について考えます。身体が朽ち果てていくのはわかりますが、魂の行き先については誰もわかりません。

 人間というものは、親しい方を亡くされたり、自分自身が一歩間違うと死に至ったというような危険な出来事に遭遇したりすると、死というものが急に身近になり、しばらくは死について切実にまた厳しい思いで考えます。普段はそんなことには興味がないのに、来世への信仰や霊魂不滅の思想に関心を持ったりしますが、それはあまり長続きはしません。少し時間が経つとすぐ忘れてしまうのです。人間は死について考えることをよほど避けたいのでしょうか、自分の人生はいつまでも続くように思って生きている人が多いのです。

 しかしながら、人間の営みの中で死については、もっと問題意識を持って考えないといけないことではないでしょうか。死とは何でしょうか。何が人間の死の先にあり、死を超えて永遠に続くものなのでしょうか、何が私たち人間に死を超える望みを与えてくれるのでしょうか。先週、イエスが死を打ち破って復活されたイースターの喜びを味わった私たちには、そのことに関して明確な確信をもって生きることが求められています。

 ご存知のように、キリスト教の歴史を考えますと、イエスの教えが宣べ伝えられ、各地に神の国の福音が伝道されていった初期の頃から約300年の間は迫害の時代でした。そのすさまじい迫害の中にあっても教会はめげずに福音伝道を推進していったのです。それで遂にローマ帝国がキリスト教を公認することになったのですが、キリスト者が殉教の死をも厭わず、迫害に耐えたその力の源がどこにあったかのと言えば、それは永遠なるものに対する確信でした。それは今の私たちにも通じる信仰であり、もっと強調しなければならないものではないかと思っています。

 パウロはこのコリントの信徒への手紙で、私たちの信仰生活や教会生活についていろいろと語っています。それはつまり人間の人生について語っているのです。キリストを信じて生きる者の生活は、教会と切り離せませんから、この前の12章では教会のことや霊の賜物について、いろいろ語られています。その中で、ずっと続いていくものとそうでないものがあげられています。「(8節)愛は決して滅びない。」のですが、「預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れる」というのです。預言というのは、神からの言葉を語るわけですが、広い意味で考えるならば、今の時代では説教や証しのようなものと考えられると思います。

 パウロは預言を大変重く受け止めていました。14章では教会は預言によって造り上げられるのだとも語っています。しかしそのようなすばらしい御業が廃れる、永遠に続くものではないのだと言うのです。9節には「 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。」とあります。今日、私たち人間の頭脳の発達は目覚ましく、自然科学でも宇宙科学でもその進歩は飛躍的で驚くべきものがありますが、それらの知識もまた部分的なものに過ぎないというのです。「(10節)完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。」いつの日か、あらゆるものが完全になって私たち人間世界に臨む日が来た時には、預言も異言も知識も廃れてしまうのだと言います。

 パウロは何が永遠であるかを知っているのです。その永遠に変わらないものが、今の自分を生かし、自分の様々の働きを支え導いているのだと信じているのです。それが信仰と希望と愛でした。この三つはいつまでも残るが、その中で最も大いなるものが愛だと語っています。「(13節)それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」

 キリスト教の歴史において、また、聖書の御言葉の中で、この信仰と希望と愛(信、望、愛)という三つの言葉は格別に多くの人の心をひきつけてきました。聖書の中で好きな御言葉にこの個所をあげる方もたくさんおられます。以前この礼拝堂にも「信、望、愛」と書かれた額が掲げられていました。先日の「ガリラヤの風」には、短冊に書かれたこの御言葉のことを書いてくださった方があり、読む者に励ましを与えてくださいました。また、これらの言葉を取り上げて論じ、考察された書物もたくさんあります。キリスト教思想で最も美しいところがこのコリントの信徒への手紙13章に表わされているとも言えます。

 そのようにすばらしい御言葉ですが、それを語っているパウロ自身には特別な論理はないように思われます。パウロの言葉は実に単純で素朴そのものです。それはパウロ自身が体験していることであり、よく知っていることであり、パウロ自身がそこに立って生き続けている自然な事実だからではないでしょうか。

「愛は決して滅びない。」「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」決して滅びずにいつまでも残る愛、とはいったいどういう愛でしょうか。人間が愛を歌う時、「愛は死を超えて」という歌詞の出て来るラブソングもあります。人が誰かを愛することは素晴らしいことです。しかし人間が抱く愛は、死を超えてもなお愛し続ける事ができるほどの強さがあるのでしょうか。本当に死の先までもその人を愛し続けられると言い切れるのでしょうか。

 パウロがここで語っているのはとても具体的で現実的なものです。愛は、心の中にあるだけならば、それはまだ真実の愛ではないということなのです。愛は人と人との結びつき、絆から生まれます。人が誰かに語りかけ、あるいは語りかけられることです。人が誰かを助けたり助けられたりすることです。その行為があってはじめて愛は現実となるのです。このような愛こそが永遠だとパウロは言うのです。そしてこの絆こそが永遠に変わらないと言っているのです。

 パウロはこう語っています。「(12節)わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」ここには「はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」とあります。すぐに思い起こすのは、8章3節の御言葉ではないでしょうか。「神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。」ガラテヤの信徒への手紙4章9節には「しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られている。」というように書かれています。神が私たちを知っていてくださるという、神と人間の間にある絆です。

 ここでパウロが「はっきり知られているように」と語っているように、神がまず私たちをはっきり知っていてくださるのです。なぜなら私たちの命は神から出ているからです。しかし、もし私たちが神を知らず、神に背を向けて生きているならば、神どころか一人の人間さえもはっきり知ることはできないでしょう。私たちはこの世ではすべてのものがおぼろげにしかわからないのです。いや他の人のことだけではありません。自分自身のことでさえも分かりません。見るべきものが見えていないからです。私たち人間は、自分を生み出した永遠なる神を思い、自己中心の思いから解放された時に初めて、神に知られ、神に愛されていることに気づくのです。

 先週のイースターで、主イエスの死と復活を感謝いたしましたが、それは何よりも神の愛の勝利でした。イエスが死に勝利して復活されたという事実の中に、私たち人間を愛する神の愛が現わされているのです。そこには、私たち一人ひとりが知られているという事実があります。そして「(12節)だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」今は神が私たちを一方的に知って救ってくださいましたが、いつの日か私たちもまた、はっきり知ることができる時が来るのです。その望みは私たち自身の復活の望みにつながっています。

 このイースターの事実に根差している愛が、同時に信仰と希望につながり、一つになるものであることは言うまでもありません。この神の愛に信頼して生きるところに信仰が生まれます。そして揺るがぬ希望が生まれてくるのです。今すでに私たち神を信じる者は永遠の愛の中に生かされています。その永遠の愛の中で、私たちは永遠なるものに触れて生きているのです。ですから日々の生活で私たちはささやかな愛の業に生きることができるのです。

 確かに神の愛、永遠に続く愛、と言いますと、それは崇高で近寄りがたく、観念的な理想や理念に思えるかもしれません。しかし、神の御子イエスがこの世に来られた時に、それは私たちの間で現実になったのです。小さなことに心を煩わせているだけの私たち人間世界の只中に、真実の神の愛が示された出来事です。つまり、愛は神から出ているのです。神は愛だからです。私たちが愛を語るということは、主イエスを語ることにつながるのです。

 今の生活はみな不完全であり廃れるものだと言われています。しかし、それらすべてが生かされ、救われる道があります。今実際に救われています。今この世に生きている私たち一人ひとりのささやかなどんな人生の営みにおいても、あのイエスの十字架の愛があるならば、そこに永遠の意味が与えられているのです。今現に行っている小さな行いの中に、いつも神が伴われているからです。やがて私たちそれぞれの人生が全うされる時が来ますが、永遠につながる望みを抱いて、私たちは今ここで、自分にできるささやかな愛に生きていきたいと願っています。

 私たちをその神の愛の中で生かしてくださるイエスは、私たち自身をも造り替えてくださり、人々を愛して生きることができるようにしてくださいました。私たちは、その愛がどんなに幼稚な行為であろうと、信仰と希望とをもってそこに生きればよいのです。「(11節)幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。」幼子であることを悲観することはありません。むしろ私たちは「幼子」であることをわきまえていないと、大変な思いあがりや過ちを犯すことになりかねません。私たちにとって大切なのは謙遜に、神の愛を信じて生きていく心ではないでしょうか。永遠を知る者こそ、最も大胆に真の愛に生きる道を知っているのです。

 本日は先に天の故郷に帰られた方々のことを偲び、共に主にあって過ごした日々を懐かしく思い起こしながら、永遠に存続するものについて考えてまいりました。未だこの世にいる私たちもまた、いつの日か神の身許に招かれます。私たちのこの身体が滅ぼされる時は必ず来ますが、それがすべての終わりではありません。死は復活という大いなる出来事の出発点です。死が希望に変えられる、この豊かな恵みはイエスの死と復活によって私たちに約束されたのです。死を越えてなお、大いなる希望があるこの幸い、永遠に続く神の愛をしっかり心に刻み付けて、新しい週も感謝して過ごしたいと願っております。

(牧師 常廣澄子)