2024年1月14日(主日)
主日礼拝『 成人祝福・誕生日祝福 』
ルカによる福音書 12章1~12節
牧師 永田邦夫
2024年の年頭から能登地方を震源とする巨大地震があり、また世界で続いています戦争も未だ止むことを知らず、本当に厳しい年の幕開けとなりました。斯様な中でわたしたちに出来ることは、「この世界が、そして日本が、神のみ旨に沿って歩み、少しでも良くなっていくように」と祈り続けることです。
今年も引き続き、ルカによる福音書が伝えている、神のメッセージを皆さんとご一緒にお聞きしてまいりましょう。本日箇所は12章からです。ここに至ります直近の流れの大筋を先に確認いたしますと、主イエスがガリラヤでの活動から、エルサレムに向かう決意を固められてから(本書9章51節)、道を進んでゆく途上で、特に弟子たちに対する教えが続いてきました。
そしてさらに本日箇所(12章)に入ります直前では、主イエスに押し迫る、ファリサイ派の人々や律法学者からの激しい非難の眼差しが向けられている中で、やがて、愛弟子たちも経験するかもしれない受難を、力強く乗り切るためにと「イエスを告白するときの励ましの言葉」が本日箇所となっています。
本日箇所は三つの段落に分かれており、最初の段落1~3節は「自分たちに襲い掛かる偽善の言葉に気をつけよ」、二番目4~7節は「わたしたちが本当に恐るべきものとは何か」そして最後の8~12節は「わたしたちにとって最も必要な信仰告白と、そのときの助けとなっている聖霊の力について」などが記されています。
では本日箇所に入っていきます。直前の段落(前回の説教箇所)では、ファリサイ派の人々と律法学者それぞれの、不幸で残念なこととして三つを指摘しました。当時この両者は主イエスに対して激しい敵意を持って、時々押し迫ってきていましたが、本日箇所に入ってからも最初に、このファリサイ派の人々のことが出てきます。1節は「とかくするうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。」との書き出しです。
続いて主イエスは、弟子たちに向かって、先ず「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。」と、端的に忠告しています。ここでいうパン種とは、パンを作るとき、麦粉に混ぜて練り込み、パンを膨らませるための酵母を言います。イスラエル人の生活においては、パンを作るときの材料に留まらず、律法や儀式、また宗教的な教えの面でも、「パン種」という言葉は重要であった、と言われています。
ここで、主イエスが「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい」と言っているのはファリサイ派の人々は日ごろの言動と、その元である心の内はかけ離れており、それは偽善そのものである、と言っているのです、なんと厳しいお言葉でしょうか。続く2節「覆われているもので現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。」等々、補足の言葉が続いています。言動と心の内の乖離現象は、今日の政治の世界においても、残念ながら、悲しくなるほど、数多く見られます。偽善的な言葉、あるいは仲間内で内緒にしておこうとすることは、いつしかばれるもの、露(あらわ)にされるものです。
次は第二段落(4~7節)に入ります。大勢の群衆に囲まれている弟子たちに向かっての言葉が続いており、「友人であるあなたがたに言っておく」(4節a)と親しく呼びかけながら、これから大事な話をするのでよく聞いて欲しい、と言っています。このように、弟子に向かって「友人」と呼んでいるのは、共観福音書ではここだけだとのことです。因みに、ヨハネによる福音書15章13~14節には「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」とあります。
次の5節も内容的には4節から続いている弟子たちへの忠告の言葉で、「本当に恐るべきこと、それは、『体を殺してもそれ以上何もできない者どもを恐れるのではなく、殺した後で地獄に投げ込む権威を持っている方を恐れなさい』ということだ。」と語っています。4節の「体を殺しても、それ以上何もできない者ども」とは、当時の世相を反映しており、弟子たちが置かれている状況には非常に厳しいものがあったのです。統治者等からの迫害に対し、弟子たちは命がけで信仰を守らなければならない状況があったことを表しています。
現在のわたしたちキリスト者は、肉体が滅んでも(肉体の死はだれでもやがて迎えますが)、その後、神の御国に召される、という大きな恵みと希望が与えられています。もしそうでなければ、5節に示されているように、権威を持つ方を恐れなければなりません。
サムエル記上2章6節に「主は命を絶ち、また命を与え、陰府(よみ)に下し、また引き上げてくださる。」とあります。言葉を代えますと、人の力には限界がありますが、神の御力は無限であること告げています。
次は6~7節です「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりはるかにまさっている。」とあります。
ここはあまり説明が要りませんが、神の行き届いた愛、そして繊細な御心遣いを言っています。なお、アサリオンとは当時の貨幣の単位で、一デナリオンの16分の一とされています。仮に一デナリオンを一日分の労働に対する賃金(1万円)としますと、二アサリオンとは1250円となります。五羽の雀が1250円で売られていたことになり、現在のわたしたちにも理解できます。
次は最後の段落の8節に入りますと、その前半に「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。」とあります。ここに記されていますように、この第三区分からは、主イエスのもとに集まって来ている大勢の群衆に向かっての言葉です。
だれでも、人々の前で「自分は主イエスの仲間である」と言い表す者、すなわち、公衆の前で信仰告白する者に対してのお言葉です。人々の前で、憚(はばから)ず、臆せずに信仰告白をする、これには非常に勇気がいります。そしてその信仰告白の内容について注目しますと、自分自身について、「わたしの仲間であると言い表す」者は、とあり、先ほどから、“信仰告白する者”とお伝えしてきましたが、その信仰告白以前に、“主イエスと仲間同士であると言い表す者”と言っているのです。弟子たちが日頃イエスさまと一緒に日常生活を送っていた当時のことを考えると、ごく普通に出てきた言葉かもしれませんが、現代のわたしたちに置き換えても“仲間同士”の言葉には嬉しさや親近感が沸いてきます。
ここでわたしは、自分のことを証します。わたしは29歳のときに教会に行き始めて、わずか三か月でバプテスマを受けましたが、その受浸によって何か世界が変わったような喜びに満たされた日々でした。そしてその翌年、自分が勤務する会社も新しく変わりました。その入社のとき、自分の信仰表明をしたのですが、(当時は入社の面接において、自分の信仰を聞くのはごく当たり前のような時代でしたので)何の抵抗もなく、自分はクリスチャンであることを伝え、そして入社しました。
聖書に戻り、8節後半に「人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であることを言い表す。」とあります。この8節で主イエスは、自分を信じて従う者に対して、「自分の仲間」と語ってくださっているのです。なんと感謝なことでしょうか。
ところが逆に「人々の前で、わたし(主イエス)を知らない」という者について、主イエスは、「神の天使たちの前でその人を知らない」と言われます。これは、なんと厳しい裁きのお言葉でしょうか。
次は10節です。「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし聖霊を冒瀆するものは赦されない。」このお言葉の前半と後半の違いについて、人は皆、キリストを信じる前はお互いに好き勝手なことを言っており、ときにはイエスの悪口さえも言ってきました。しかし、主を信じる者に変えられるときには、キリストの大きな愛に包まれながら、今までの罪も赦されてきました。
ではなぜそのように、わたしたちが180度変えられるような大きな変化が起こったのか、それは、わたしたちに対する聖霊の大きな役割があったからです。聖霊は神の霊であり、神が遣わされた御霊なる神です。よって、その聖霊なる神を冒瀆する罪は赦されないと主イエスが言われることは、わたしたちにもよく理解できます。 ここで、コリントの信徒への手紙一12章3節「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」に注目です。
また、主イエスのご生涯も、母マリアが聖霊によって身ごもり、時至って、バプテスマのヨハネからバプテスマを受け、さらに、荒野での40日間の試練、等々すべて聖霊の働きを受けながら、公生涯への準備の後、宣教活動へと入られました。ですから、このような神から遣わされた聖霊を冒瀆する者は決して赦されないのです。
このようにしてキリスト者とされたのちにも、聖霊はその人の信仰告白、更にその後の生活を導き、力を与え、励まし続けていてくださいます。父なる神、御子イエス・キリスト、そして聖霊なる神に従いながら、これからも共に力強く生きてまいりましょう。
(牧師 永田邦夫)