十字架に向かって

2024年7月14日(主日)
主日礼拝『 誕生日祝福 』

ルカによる福音書 13章31~35節
牧師 永田邦夫

 本日もルカによる福音書からのメッセージをご一緒にお聞きして参りましょう。
本日箇所の始めの31節には「ちょうどそのとき」とありまして、例によってこの箇所も、前の段落から続いていることが示されています。
よって、前の段落の内容を初めに確認してから本日箇所に入りましょう。

 直前の段落は22節から始まっていて、「狭い戸口」と小見出しがついておりまして、主イエスが、町や村を巡って教え続けておられたそのとき、ある人の問いかけ「救われる者は少ないのでしょうか」に対する、主イエスの答えが中心となっている箇所でした。 

 その内容を要約しますと、「人が救いに入るには、たとえそこに困難があろうとも、狭い戸口から入るように努めなさい。」でした。
そしてその段落の最後は、もしもあなたがたが、御国に入ることが出来なければ、アブラハム、イサク、ヤコブなど、あなたがたの父祖たちが既に神の国に入っているのに、あなたがたは、その御国に入って共にその宴会の席に着くことが出来なくなってしまいますよ、との忠告でした。
さらに加えますなら、御国に入れず、そこで泣きわめいてももう手遅れです。御国の宴席とは、「“後の者が先になり、先の者が後になる”そのようなところです」との恩情に溢れた忠告の言葉でした。

 少々長くなりましたが、主イエスが伝道の始めに言われた大切な言葉と、その後のご自身の十字架予告の中で言われた大切な言葉も見ておきましょう。
 伝道の始めのお言葉は、主イエスが故郷ナザレで説教をしたその説教からです。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」(ルカによる福音書4章18~19節)とのお言葉でした。

 もう一か所は、前述の通り、主イエスが、ご自身の死と復活を最初に予告された、その言葉は「次のように言われた。『人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。』」(ルカによる福音書9章22節)でした。因みにここに出てきます“三日目に”という言葉は、本日箇所に出てくる大切な言葉ですので、後ほど触れます。

 早速本日箇所に戻りますと、冒頭31節には「ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。『ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。』」とありまして、ファリサイ派の人々やヘロデが登場します。ヘロデとは、ヘロデ・アンテイパスのことで当時、ガリラヤ地方及び隣接のペレアの領主でした。
 ヘロデは政治的支配者ですが、またその性格から、宗教支配者である主イエスとは相容れない出来事が頻繁に起こっていました。ヘロデの性格は、狡猾・小心で、かつ猜疑心が強かった、と言われています。このことは31節の「ヘロデがあなたを殺そうとしています」にもよく表れています。

 そのヘロデ・アンテイパスとは、自分の不倫(兄弟の妻を横取りする)を、バプテスマのヨハネから指摘されたことを恨み、そのヨハネを捕らえて牢に入れ、挙句の果て殺害してしまう、恐ろしい人でもあります。
 一方、本日箇所に登場しているファリサイ派の人々について、彼らは主イエスに対して、“ここを立ち去って欲しい、ヘロデがあなたを殺そうとしているから”の言葉は、一見、親切心からの忠告のようにも思えますが、それとも下心があってのことか否か、分かりません。

 ファリサイ派の人々の忠告に対する、主イエスの返答の言葉が32節の、「行って、あの狐に『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。」です。

 ここでの主イエスのお言葉にも「三日目」という言葉がまたでてきました。この「三日目」という言葉の解釈について、①文字通り「三日目」という意味、②「ごく短期間に」という意味、③主イエスの受難と復活の予告を意識しながら、「三日目」という言葉を使っている、等々言われていますが、この32節で、主イエスが言われている意味は、②の「ごく短期間に」との解釈である、との聖書学者の意見があります。

 主イエスが、「ヘロデに告げよ」と言われた言葉(32節)の要点は、「自分は今日も明日も続けて、御国の福音は勿論のこと、悪霊追放、病気の癒し、などを行っている、しかしそれには終わりがある。」この最後の「終わりがある」という言葉は、「それは必ず完成するときがある」ということです。「三日目にすべてを終える」と言った言葉を踏まえて、それに続けて「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。」と語られ、ご自分が行おうとしている全てのことを強調しているのです。

 このことは、主イエスのご生涯の歩みを十分に知らされ、かつ、理解しているわたしたちにとりましては、十分すぎるほどその意味が分かります。

 では、33節後半「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。」について詳しく見ていきましょう。
その前に、エルサレムとは、キリスト者にとって、またキリスト教の歴史においてどんな場所なのかに注目しなければなりません。

 エルサレムとは、神の恵みが満ち溢れている場所です。そしてその神が、救い主であられる御子イエス・キリストを世に遣わされた、その場所です。それと同時に、人間の罪が飛び交っている場所でもあります。その人間たちが、御子イエスを十字架につけた場所です。

 ルカによる福音書19章41~42節を見ましょう。「エルサレムに近づき,都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた『もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら・・・。しかし今は、それがお前には見えない。』」とあります。

 では33節の後半「預言者がエルサレム以外の場所で死ぬことはありえないからだ。」についてです。預言者がエルサレムで死んだ事例について見ておきましょう。ヨアシュ王の命令で、預言者ゼカルヤが石打ちにされて殺された事件(歴代誌下24章1~22節)や、預言者ウリヤが神殿で捕えられ殺された例(エレミヤ書26章23節)などがあります。

 また逆に、エルサレム以外の場所で殉教した預言者の事例(バプテスマのヨハネの例)もあります。主イエスが23節bで「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。」と言っているのは、都エルサレムは、神の民全体のいわば代表的な場所として、その責め(罪の責任)を負う、あるいは、負うべきだと主イエスは言っておられるのです。

 次は34節に入ります。この節は直前の33節の言葉を受けての節であることが直ぐ分かります。この節の始めには「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ」と始まっています。ここでは、「預言者たち」と言う言葉と、「自分に遣わされた人々」と、言葉を代えて二重にその意味を強調していることが分かります。

 そしてさらに、二重に強調された悪行の主(ぬし)すなわち加害者は、他でもなく「エルサレム、エルサレム」と呼ばれている擬人化された相手であって、神の民全体、全てのキリスト者のことです。そして、ここにはわたしたちも含まれているのです。

 この34節は非常に長い節となっています。そして、本日箇所の中心的な節でもあります。よって、この節を次のように、三つに分けて見ていきましょう。
① 「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ」
② 「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。」
③ 「だが、お前たちは応じようとしなかった。」の三つです。

 ではこの三つについて、詳しく見ていきます。
最初の①はすでに見てきましたように、「エルサレム」という地名を使って、すべてのキリスト者を指していることが分かりました。
②は、旧約聖書の時代から言われてきたことで、イスラエルの民が、ヤハウェの神の慈しみと、その守りの下に宿っていることを表現しています。(詩編91篇の4節aには、「神は羽をもってあなたを覆い 翼の下にかばってくださる。」とあります。)
③ しかし民はその呼びかけに応じようとはしなかった、と神は嘆いています。   

 次は35節です。「見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』という時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」とありまして、この言葉は、神の求めに応じなかった人への断罪と嘆き悲しみ、のようにとれますが、決してそうではありません。

 ルカによる福音書15章にあります、放蕩息子の父親を思い出していただきたいのです。放蕩に身をもち崩して帰って来た息子に対して、「まだ、遠く離れていたのに父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き接吻した」(ルカによる福音書15章20節)とあります。

 本日箇所35節に示された、神に背き続けた人に対する神の対応は、先に示した、放蕩息子の父親とは全く違うようにも理解できますが、決してそうではなく、放蕩息子の父親と同じように、今までどうしようもなかった息子の立ち返りを、首を長くして待っていてくださる、そのような父親、すなわち、神です。

 背き続けるエルサレム(これは前述しましたように、神の民イスラエルに対して象徴的に表現している言葉で、この中には全てのキリスト者、すなわち、わたしたちも含まれます。)に、ひとり子なるイエス・キリストを送り込み、そのエルサレムの罪と反逆をも赦して、救いを完成してくださいました。それが、イエス・キリストの死と復活です。

 わたしたち夫々は、本来、神の恵みから離れ、さ迷っていました。しかし、わたしたちが、まだ救い主なる神を知らない時から、わたしたちが立ち返り、神を知り神を信じる人となるように、ずっと待ち続けていてくださったのです。
 このことが本日箇所、35節に「見よ、お前たちの家は見捨てられる。」から続く言葉の中で、神は逆説的な表現を用いて言われている、と信じております。

 今までお話しして来たことが、ルカによる福音書24章45~48節に書かれています。“そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」”

(牧師 永田邦夫)

聖書の引用は、『 聖書 新共同訳 』©️1987, 1988共同訳聖書実行委員会 日本聖書協会による。