謙遜の心

2024年9月8日(主日)
主日礼拝『 誕生日祝福 』

ルカによる福音書 14章7~14節
牧師 永田邦夫

 本日箇所の冒頭7節には「イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。」とありまして、このたとえは14節まで続いています。また、出来事としては、14章に入りましてから、1節から24節までが一つの大きな流れをなしていますので、これを先に確認しておきましょう。

 最初の段落、1節から6節までは、主イエスがある安息日に食事のため、ファリサイ派の議員の招きにより、その家に入られたのです。するとそこに、水腫を患っている人がいて、人々は、イエスが安息日なのに、その患者の癒しをされるかどうか様子をうかがっていたとあります。勿論イエスは、その患者への癒しをされましたが、ファリサイ派の人々や、律法学者の反応を確かめるかの如く、彼らに向かって「安息日の癒しは律法で許されているか否か」を問う場面もありました。

 続いて第二段落、ファリサイ派の議員の招きによる招待客が、上席を選んで座っている様子に主イエスが気づかれて、その人たちへの教え諭しの言葉となります。
招待客が好んで上席に座る、ということに関しては、一般社会的に考えて、その催しがどんな催しなのかにより、いろいろと状況は変わります。
自由席を設けている場合は、早い者勝ちで、招待客はできるだけ早く行って、自分が好きな席を自由に選ぶことでしょう。

 聖書の本日箇所では、すでに触れていますように、14章の1節から24節までが、大きな流れとなっていて、主イエスが食事のために、ファリサイ派の議員の家にお入りになったその時から、一緒にそこに招かれている人々の様子、すなわち、彼らが自分の席をどのように選んでいるかが記されています。

 7節には、「イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。」とありますが、当日そこに招待されている客は、誰かの指示によってではなく、自由に自分の席を選んで座ることが出来たのでしょう。
 しかし、自由に選べると言っても、周りの状況を見ながら、人々への配慮も必要なことは勿論です。
そこで主イエスは、招待客が上席を選んですわっている様子をご覧になり、その人々に向かってのお言葉が8節以降にあります。

 では、8節から10節の言葉を先に見ましょう。
「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。」と記されています。

 この主イエスのお言葉は本当によく理解できます。始めから謙遜な姿勢を取り、そして行動する者に対して、主なる神は、その人を良くご覧になっていて、あとで報いてくださる、ということを表しており、そのことが良く伝わってきます。

 次の11節に「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」とあります。なおこの11節までが8節から続いていた主イエスのお言葉です。
 この11節のお言葉は、主イエスから世の人々に対して、そしてわたしたちに対して、「他者への気配り」あるいは、「謙遜の心」(本日の「説教題」としています)を教えておられるのです。因みに、新共同訳聖書には小見出しがついていて、この箇所には「客と招待する者への教訓」となっています。

 本日箇所以外にも、主イエスが、ファリサイ派の人々や、律法学者に対して、謙遜のことを教えている箇所がありますので、それを見ていきましょう。

 先ず、ファリサイ派の人々へ忠告の言葉です。
ルカによる福音書11章43節に「あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ。」とあります。
「会堂では上席に着き、また、人々からは挨拶されること」これは、目立ちたがり屋で、他人からチヤホヤされることを好む、ということを表しています。
これは人間の本能かもしれませんが、主イエスが教えておられる謙遜の心とは全く逆の生き方です。本当に気を付けたいことです。

 次は律法学者に関して、民衆に教えている箇所です。
ルカによる福音書20章46節に次のようにあります。「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。」とです。
 以上、ファリサイ派の人々、そして律法学者、いずれも、上座や上席を好み、そして人々からは挨拶される、要するに、チヤホヤされることを好む、と言っています。
 このことは、現代の社会に目を向けますと、全く同じようなことが起こっているように思います。これは先ほども触れましたが、これは、人間の本能的な欲求の悪い面、と言うことも出来ると思います。
 わたしたちキリスト者は、主イエス・キリストに従い、キリストの生きざまを見習いながら生きるように、と教えられています。

 フィリピの信徒への手紙2章6~9節には次のようにあります。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」

 謙遜についての教えが、聖書のいたるところにあり、わたしたちに語りかけていますので、それを見て参りましょう。

(1)旧約聖書から
① 箴言3章34節「主は不遜な者を嘲り へりくだる人に恵みを賜る。」
② 箴言25章6、7節「王の前でうぬぼれるな。身分の高い人々の場に立とうとするな。高貴な人の前で下座に落とされるよりも 上座に着くようにと言われる方がよい。」
③ イザヤ書66章2節「これらはすべて、わたしの手が造り これらはすべて、それゆえに存在すると 主は言われる。 わたしが顧みるのは 苦しむ人、霊の砕かれた人 わたしの言葉におののく人。」

(2)新約聖書から
① ローマの信徒への手紙12章16節「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。」
② ヤコブの手紙4章10節「主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。」
③ ペトロの手紙一5章6節「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。」
④ テモテへの手紙一6章17節「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」

 12節以降に入っていきます。その12節には「また、イエスは招いてくれた人にも言われた。『昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかもしれないからである。』」とあります。
 
 ここからは、招待する側への教えです。なお、ここから後、数節の教えは、「これこれはだめで、こうしなさい」という教えとなっています。その教えは、AかBでどちらかにしなさい、という命令の仕方です。
 これは、当時の考え方の基本としての教えであって、今日の実際の生活では、そのように割り切ることはできないように思います。

 この12節の教えは、昼食や夕食などの食事会を催すときは、友人、兄弟など、親しい人を呼んではならない、という教えです。その理由は、お互いにまたお返しをし合うから、ということです。 これは、今日的に見ますと、交わりの一つで、妥当ではないかとも受け取れます。
 
 次は13節、14節Aです。「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。」とあります。
 12節から14節Aについて、整理して見ていきましょう。
「食事会や宴会に招いてはいけない人」として例に挙げていますのは、普段、何不自由なく生活していて、他人から頂いたら、それに対してまたお返しをする、ということに気を使い、お互いにやり取りし合う人です。そういうことは控えなさい、との教えです。ここで主イエスが教えてくださっているのは、第一に、物の貸し借りで成り立っている人付き合いは控えなさい。そうではなく、真心からの人付き合い、見返りを期待しない人付き合いをするように、という教えです。

 そして主イエスの教えの締めくくりは「あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」のお言葉です。このことを信じながら、これからも力強く生きていきましょう。

(牧師 永田邦夫)

聖書の引用は、『 聖書 新共同訳 』©1987,1988共同訳聖書実行委員会 日本聖書協会による。