聖書

神、我らと共にいます

マタイによる福音書 1章18~25節 牧師 常廣 澄子     皆さま、クリスマスおめでとうございます! 私たちは毎週ろうそくを1本ずつ灯しながら、待降節の日々を過ごしてきました。何を待ち望んでいたのでしょうか。それは本日の聖書箇所の冒頭に書かれていますが、救い主イエスの誕生です。本日はアドベントクランツのろうそくが4本灯り、待ち望んでいた喜びのクリスマスです。

ますます力を得て

使徒言行録 9章19b~31節 牧師 常廣 澄子        前回私たちは、キリスト教を迫害していたサウロが復活のキリストに出会って、奇跡的に回心した出来事をみてきました。今朝お読みしたところには、180度人生の方向転換をしたサウロが、その後どのように生きていったかが書かれています。そしてその結果が最後の31節にあります。前回私たちは、キリスト教を迫害していたサウロが復活のキリストに出会って、奇跡的に回心した出来事をみてきま

父の愛

ルカによる福音書 15章11~32節 牧師 永田 邦夫     早速、早速、本日箇所からのメッセージをご一緒にお聞きして参りましょう。 本日箇所を含む、ルカによる福音書(以下「本書」と呼ぶ)15章全体は、三つの段落に分かれていて、順次、「見失った羊」のたとえ、「無くした銀貨」のたとえ、そして本日箇所の「放蕩息子」のたとえ、と続きます。中でも「放蕩息子」のたとえは、皆さんに良く知られている箇所です。  また、よく例に出します岩波版聖書では、この三つの例話をいずれも、「失われた何々」と、統一した表現を取っていることも紹介しておきましょう。

白馬の騎手キリスト

ヨハネの黙示録 19章11~21節 牧師 常廣 澄子      童話の中には、悪者に囚われてしまったお姫様を助け出すために、白馬にまたがった素敵な王子様が登場するお話があります。悪者をばっさばっさとやっつけてお姫様を救い出すハンサムな王子様に、子どもたちは声援を送り、心をときめかします。今日の聖書箇所には、そのような白馬の騎士が登場してきます。まず11節を読むと、天が開かれてヨハネは驚くべき光景を見させられるのです。

見失った羊

ルカによる福音書 15章1~7節 牧師 永田 邦夫        はじめに、本日の礼拝に招かれましたことを主なる神に感謝申し上げます。 本日箇所も前の14章と関係がありますので、その関係が深い34節35節を先に確認してから本日箇所15章に入っていきましょう。  34節35節には「塩気のなくなった塩」との小見出しがあり、ここに記されている教えの意味を理解しておきましょう。塩は勿論、調味料として使われますが、塩自体よりも、その周りのものを引き立てて、その味や、特徴をより高める効果を表します。その塩も“塩気がなくなれば”すなわち本来の効果を発揮できなくなれば、「畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。」と厳しい言葉となっています。

神が選んだ器

使徒言行録 9章1~19a節 牧師 常廣 澄子           私たちは8章で、サマリアでの福音伝道や、エチオピアの高官の救いなど、御霊に満ちたフィリポの素晴らしい働きを見てきましたが、一方ではステファノの殉教をきっかけとして始まったキリスト教徒への迫害はますます激しくなっていました。この9章では迫害の急先鋒となっていたサウロに焦点が当てられています。しかしここでのサウロについての説明は、石を投げつけてステファノを殺した人たちが、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた(7章58節)ということと、彼はステファノの殺害に賛成していた(9章1節)という紹介記事があるだけです。

婚宴に招かれる者

ヨハネの黙示録 19章1~10節 牧師 常廣 澄子        お読みいただいた箇所には「ハレルヤ」という賛美が響き渡っています。「ハレルヤ」という言葉は、教会に行ったことがない人でも、どこかで聞いたことがあると思います。よく知られているのは「ハレルヤコーラス」ではないでしょうか。クリスマスの時期によく演奏されるヘンデル作曲の「メサイヤ」で歌われる大合唱です。この曲が1743年にロンドンで演奏された時、ハレルヤの合唱になった時に当時の国王ジョージ2世が感動して起立されたので、その場にいた聴衆も皆立ち上がったそうです。それ以来、ハレルヤコーラスの時には聴衆が起立して聞くような習慣が起こったのだと言われています。

自分の十字架を背負う

ルカによる福音書 14章25~33節 牧師 永田 邦夫     ルカによる福音書の本日箇所について、共観福音書では、マタイによる福音書に僅か二行だけの記事があるのみですので、本日の説教箇所は、ルカによる福音書だけの独自記事とみてよいと思います。

ここに水があります

使徒言行録 8章26~40節 牧師 常廣 澄子         私たちが信じているイエス様は、私たちの罪を負って十字架に架けられましたが、そのまま死んでしまわれたのではありません。死を打ち破

大いなるバビロンは倒れた

ヨハネの黙示録 18章1~24節 牧師 常廣 澄子        このヨハネの黙示録には奇妙な獣たちが出て来ますし、想像することが難しいような幻想的な場面がいろいろ描かれています。それはこの黙示録が、キリスト信徒たちが自由にものを言えなかった時代に書かれたので、こういう表現をとらざるを得なかったのです。そういう厳しい時代に、神の霊に導かれたヨハネが書いたものですから、それを聞く者も読む者も、神の霊に導かれなければ、これらの事柄の意味をほんとうに理解することはできないのだと思います。17章9節に「ここに、知恵のある心が必要である」と書かれていますが、これは神を信じ、神を崇め、神を畏れる知恵のことです。神が示されたこの出来事はいったい何を語っているのだろう、何とか理解したいと、神の前に謙虚に出て行く者に、神の御心が明らかにされていくのではないでしょうか。