聖書

互いの受容

この個所は、信仰共同体、すなわち教会員同志の信仰生活についてのお勧めです。それは15章13節まで続いております。ローマ書の著者パウロは未だ訪問したことのないローマの教会の人々に対して、これ程までに具体的かつ踏み込んだ内容の勧めの言葉を書き送っている、それは教会すなわち、信仰共同体の信仰生活において、最も重要な事柄であり、また基本的な事柄だからです。 そして、もう一つのことは、パウロが今まで行ってきました、異邦人伝道の中で、“否というほど”経験してきたこととも直接関係しているのです。例えば、第一コリント書8章や、10章には、“偶像に供えた肉を食べることについての問題”が、また、コロサイ書2章16節以下には、“食べ物、飲み物、さらには、特定の日を巡る問題”についてのことが記されております。

神の計らい

詩編には150編の詩があります。あるカトリックの修道院では、この詩編を1週間で読み通しているそうです。詩編を何回も何回も読むことによって、神の恵みや御業をますます深く理解していくのではないかと思います。今朝お読みした詩編73編は、今の時代を生きる私たちに共感するところもあり、とても読む人の心に訴えてくる詩です。

神を畏れる生活

今、私たちの第一の関心事は新型コロナウイルスのことではないでしょうか。誰もがどこに潜んでいるのかわからない、目に見えない小さなウイルスを怖がっています。確かにそれは恐れなくてはならないものですが、今朝は信仰者が畏れるべきものは他にあることをペトロの手紙から聞いていきたいと思います。それは「神を畏れる」ということです。

無くした銀貨

ルカによる福音書15章には三つのたとえ話が書かれています。「見失った羊のたとえ」「無くした銀貨のたとえ」「放蕩息子のたとえ」です。今朝お読みいただいたのは、真ん中にあるたとえ話で、最も短いものです。この箇所はその前の「見失った羊のたとえ」の陰に隠れて、さっと読み過ごしている個所かもしれません。実はこれら二つの話は一対になっていて、同じ趣旨のことを語っていると考えられています。つまり同じ主題について事柄を変えて二回語ることによって内容が一層協調されるからです。

隣人愛

二年余り続いておりますローマ書からの説教、現在は「実践生活についての教え」である、12章以降に入っておりまして、本日は13章8節からです。何時ものように、直近の前の部分を確認しながら、先へと進みたいと思います。12章では、この世における実践生活、そのものが“霊的礼拝”、また“理に適った礼拝”である。それは、すでに主イエスさまが、ご自身の十字架の贖いによって、わたしたちを生かしていてくださいますからです。よってわたしたちは、日々“霊的礼拝としての実生活”を送っていくことができます。その礼拝たる実生活においては、「愛に偽りがあってはならない」、「兄弟愛をもって互いに愛し合うように」、との勧めをいただくのです。

神への希望

この詩編は1節に、賛歌、ダビデの詩とあります。しかし、必ずしもダビデが歌った歌というわけではなく、周囲から攻め寄せてくる多くの敵を前にして小国ユダヤの王の立場をとって歌った詩人の歌にダビデの名を冠したものだと考えられています。その前のところに「指揮者によって、エドトンに合わせて。」とありますが、エドトンというのは、宮廷楽人の一人の名前で、エルサレム神殿にはじめて聖歌隊を作った人だと言われています。彼の名前がその後聖歌隊そのものを指すようになっていったようです。

すばらしい喜び

このペトロの手紙は、困難にある人々を慰め、励ますために書かれたと言われていて、昔から多くの人に愛されてきました。はじめに少しこの手紙のことをご説明したいと思います。この手紙を書いたのは、1節に「イエス・キリストの使徒ペトロから」とあるように、ガリラヤの漁師からイエスの弟子となったペトロです。ペトロは兄弟アンデレと共にイエスの弟子となって、イエスに従っていきました。ペトロに関しては様々なエピソードがあり、聖書のあちこちにペトロの驚きや戸惑い、その行動が語られています。そのようにイエスの一番身近にいたペトロですが、イエスが十字架につけられた時には、イエスを捨てて逃げてしまいました。その後、復活のイエスに出会って、三度も私を愛するかと問われて、改めてイエスに対する愛を告白し、新たな思いでイエスに従っていったのです。その後は主の御霊に導かれて福音のためにすばらしい働きをしていきました。そして最後にペトロは殉教の死を遂げるのですが、イエスと同じでは申し訳ないと、自ら逆さはりつけを求めて死んだと言われています。

宴会の席

この譬え話は大変分かりやすいものです。特に日本人には分かりやすいと思います。しかし、最近の催し事は予め席が決まっていることが多いからですから、このようなことはあまりないかもしれません。しかし一般的には、人に招かれた場合は、まずその場所での下座の方に自分の席を求めるようです。日本人は遠慮することを知っていますから、そうするのが自然な礼儀になっているような気がします。日本で上席と言いますと、和室の場合だと床の間に最も近い所、大きなホールですと正面の中央でしょうか。招待客はだいたいそこから遠い所に座ろうとするわけです。すると主催者側の人が来て、そんなところに座らないで、どうぞこちらへと勧めてくれて面目を施すことになるわけです。ところが興味深いことに、ユダヤの国にも上席末席があるようで、7節を読みますとイエスが招かれた食事会では、皆が上席に着こうとしていたというのです。どういうことなのでしょうか。ユダヤの人は自分に自信があるのでしょうか。あるいは自分を主張する精神が強いのでしょうか。

神が定めた支配者への従順

2020年度が始まりましてから、会堂での礼拝は本日が二回目となります。会堂の前方講壇の横には、年間主題「主にあって日々新たに」と、聖句「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る」が掲げられておりますが、先週、礼拝が始まる前に、これを執筆してくださったかたが感慨深そうに、この貼り紙を眺めていたのが印象的でした。 わたしたちは、どんな困難な時も、この主題および聖句が示すように、主に望みを置きつつ、日々新たにされて、この苦難から立ち上がり、鷲のように翼を張って立ち上がることができますように、と願っております。

神はわが助け

「神はわがやぐら」という讃美歌があります。(新生讃美歌538番、日本基督教団讃美歌267番)これは宗教改革者マルティン・ルターが詩編46編を基にして作ったものです。力強い神の約束が荘厳なメロディーと調和して、誠に重みのある讃美歌です。この曲は、ルターが1517年10月31日に95か条の提題を掲げて改革の火ぶたを切ってから10年くらいたった頃に作られました。当時の教会は罪が赦されると銘打って贖宥状を乱売していましたが、ルターは修道士として厳しい修業をしながら必死で神に祈り、徹底的に聖書を研究し、終に人が義とされるのは律法の行いではなく信仰によるのだ(ローマの信徒への手紙1:17、3:28)ということを見い出し、この提題を掲げたのです。それからのルターは、神が求められる本当の信仰、本当の教会を求めて苦闘していきます。しかし、その戦いはなかなか終わらないばかりか、ますます悪化していきました。ルターはこの間に重い病気にも見舞われ、その頃はヴィッテンベルク城の奥にかくまわれ、孤独な境遇の中にいたのです。そして何よりも、ドイツ皇帝(カール5世)とローマ教皇とが互いに提携してルターに対抗していました。彼の身の上には、大きな危険が迫っていた時期です。この曲が作られた背景にはそういう状況がありました。そのことを思いますと、歌詞の一つ一つがルターの神への信仰を歌っていることがわかります。この讃美歌は人生の深い淵から発せられた純真な信仰告白であり、神の栄光を歌う賛美です。