聖書

人生の堅固な足場

まずこの手紙が二度目の手紙であることを示してから、この手紙を書いた目的を語っています。それは「(1節)あなたがたの記憶を呼び起こして、純真な心を奮い立たせたいから」「(2節)また聖なる預言者たちがかつて語った言葉(旧約聖書全体)と、あなたがたの使徒たちが伝えた、主であり救い主である方の掟(イエスの福音)を思い出してもらうため」だと言います。あなた方が信仰に入った時の純真な心を思い出し、教えられていたことをもう一度思い起こして主の再臨を待ち望む生活をしてほしいということです。

ヘブライ人への手紙

仮住まいの者

ヘブライ人への手紙は「手紙」という題になっていますが、中身はむしろ「説教」というべきもので、それが手紙の形で届けられているのです。この手紙は小アジア(今のトルコ)の各地に住んでいたユダヤ人キリスト者に宛てて書かれたものだと考えられています。当時、キリスト教徒はユダヤ教とは異なる教えであると考えられ、ローマ皇帝を礼拝せず、キリストだけを主として崇めていることを非難され迫害されていました。そしてその厳しい迫害のために、キリストを信じている者たちの中には、信仰を捨てる者が現れたり、教会の集まりを止めたりする人々が出てきたのです。

罪の赦し 病の癒し

ルカによる福音書からの説教が続いておりまして、本日の説教は、標題の通りですが、直前までの流れの大筋を確認しますと、ガリラヤ伝道たけなわの中で、主イエスはカファルナウムにおられたとき、さらに巡回宣教の拡大の抱負を語られました(4章43節)。そして、漁師のシモン・ペトロ、ゼベダイの子ヤコブ、ヨハネたちを弟子として招かれ(5章1節~11節)、さらに本日箇所の直前では、“重い皮膚病の人の癒し”(5章12節~16節)をされ、そして、本日箇所へと進んできました。

神の慈しみに生きる者

今朝の御言葉は詩編16編からです。この詩には、異教の風習が強要される異国の支配下にあるにも関わらず、真の神への確固とした信仰を持って歩む詩人の姿が美しい言葉で歌われています。始めに「ミクタム・ダビデの詩」とあります。ダビデを冠する詩編は数多いのですが、ある聖書学者によれば、この詩の内容から考えて、ダビデがサウル王に疎まれ、追われて逃げ惑っている時に作った歌の一つではないだろうかとも言われています。

真理の道に留まる

今は、新型コロナウイルスまん延ということで、社会も人間関係も大変不安定な状態にあります。このような時こそ私たちは、いろいろな考えに惑わされることなく、神が私たち人間に求めておられることをしっかりと心に留めて生きていくことが大切ではないでしょうか。人々が集まって共に主なる神を礼拝することができなくなり、お互いの信仰を分かち合ったり励まし合ったりする機会が少なくなってくると、人間の心は寄りどころを失って不安定になってきます。そのような時に、もし優しい言葉をかけて近づいてくる人がいたら、その人に気を許してしまい、その人が言うことを信じてしまうかもしれません。それがたとえイエスの福音とかけ離れていたとしても、弱くなっている心ではそれに気づけずに、イエスの道から外れてしまうことが起きるかもしれません。ペトロの時代には、実際にそのようなことが起こっていたのです。

神は一羽の雀をも

今は鳥の話題を取り上げましたが、神が造られた自然界にはいろいろな生き物がいてそれぞれの知恵や力を使って生き延びています。鳥も動物も昆虫もみんな弱肉強食の世界に生きていますから、子孫を残すために必死で生きているのです。しかし、人間世界においては弱肉強食のルールがまかり通ってはいけないと思います。ただ、人間は生きていくために、動物でも植物でも、他の生き物の命をいただいています。他の生物の命を御馳走になっていることを忘れてはいけないと思います。

重い皮膚病の人の癒し

本日は、ルカによる福音書から標記の通り「重い皮膚病の人の癒し」と題しての説教です。主イエスは、カファルナウムにいたとき、「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」(本書4章43節)と、巡回宣教の抱負を語られました。さらに弟子選びと並行して、癒しの業を進めてこられました。その癒しの業も、より重い病気へ、より社会的意味合いの大きい病気へと進み、そして律法の決まりとも絡んで、やがてそこにファリサイ派の人々や律法学者が登場してきます。なお、イエスさまによる癒しのわざは、その癒しの業だけ単独にあるのではなく、あくまでも御国の福音伝道の一環としてなされてきたのです。

生涯の日を数える

詩編は150の詩からなっていて、神への感謝や賛美、嘆願や祈りなど、その内容はいろいろです。その時に応じてふさわしい詩編が読まれますが、今朝の詩編90編は、キリスト教の葬儀の時によく読まれる箇所ではないでしょうか。私たち人間の命について、人生について、永遠について、大変美しく哲学的に書かれた詩だと思います。本日の礼拝で歌う新生讃美歌572番「神わが助けぞ」(教団讃美歌88番「過ぎにし昔も来たる代々も」)は、イギリス最高の讃美歌作者アイザック・ワッツがこの詩編90編をもとにして作ったものです。

キリストの栄光

人が悲惨で苦しく耐えられない状況に遭遇した時にはきっと、だれか早くこの状況を見て助けに来てほしいと心から願うと思います。神を信じる私たちは、戦争や争いや醜い欲にまみれたこの世がはやく終わって、神の国、神の平和が来ますようにと、日々「みくにを来たらせたまえ」と、願り願っています。それはイエス・キリストが再びこの世に来られて、地上に神の国を実現してくださると約束されているからです。

主の霊が降る

「聖霊降臨節」(ペンテコステ)と呼ばれる特別のお祝いの日です。ペンテコステというのは五十日目という意味のギリシア語で、過越祭から五十日目に当たる収穫感謝を祝う祭り(五旬祭)だったからです。そしてそれは過越祭、仮庵祭と並ぶ三つの重要な祭りの一つでした。ただ過越祭、仮庵祭が一週間続くのに対して、五旬祭はたった一日の祭りでした。今朝はその五旬祭の日に起きた聖霊降臨の出来事をみ言葉から聞いていきたいと思います。