少女の蘇生

2022年9月11日 主日礼拝

ルカによる福音書 8章40節~56節
牧師 永田邦夫 

 本日もまた、ルカによる福音書からのメッセージをご一緒にお聞きして参りましょう。その箇所は、司会者によってお読みいただいた箇所からです。なお、本日箇所は三つ続いている、主イエスさまがなされた奇跡の出来事の最後の段落からです。なお、その奇跡の全体をより深くご理解いただくために、その前後にある記事のことも念頭に置いたうえで、そのメッセージを聞き取っていくと、より幅広くなると思っております。

 先ず本日箇所の直後には、主イエスさまがガリラヤ伝道において、常に一つの目標として来られた、“十二使徒の独り立ち”の記事が、9章の1節、2節にあります。「イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち(この、悪霊に打ち勝つ記事は、本日箇所の直前にもあります)、病気をいやす力と権能をお授けになった。そして神の国を宣べ伝え、」云々とあります。また一方、三つの奇跡の出来事の直前、8章の19節以下には、主イエスさまが、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と、信仰に基づく兄弟姉妹についての定義とも取れるお言葉を周りの人に伝えている場面がありました。

 即ち、この前後の記事から伝わって来ます、主イエスの思いは、“十二人の使徒が独り立ち”して御国を伝える伝道者となっていくこと、その一方で、最も身近な人が“神の言葉を聞いて行う”兄弟姉妹となって欲しい、そのようなイエスさまの願いが伝わってきます。また、弟子の独り立ちの記事の先へと目を向けますと、主イエスご自身の死と復活を最初に予告された記事があります。

 では早速、本日箇所に入っていきます。8章の40節「イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。人々は皆、イエスを待っていたからである。」とあります。主イエスさまとその一行は、ガリラヤの向こう岸のゲラサ人の地に赴かれた、最初の異邦人伝道の記事がありました。しかしながら、その地の伝道では、悪霊の追放は適えられたものの、それに関連する豚の溺死の出来事があって、人々からは“町から出て行ってもらいたい”と、悲しくなる言葉が返ってきておりました。

 その後、イエスさまとその一行が、再びカファルナウムの地に帰って來たそのとき、人々からは喜びをもって歓迎されたのです。このことは、わたしたちに取りましても、嬉しい気持ちにさせられます。次は41節、「そこへ、ヤイロと言う人が来た。この人は会堂長であった。」と、ここから、事態が進みます。「彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来てくださるようにと願った。」とあります。

 先ず、会堂長とはどんな仕事をする人かを見ておきましょう。会堂長(口語訳聖書では、会堂司という)とは、会堂の維持管理や、聖書の朗読、礼拝の司式もやっていた、とのことです。イエスさまが来られるや否や、そこに会堂長のヤイロが来て、イエスの足もとにひれ伏し、そして自分の家にすぐ来てくださるようと、頼み込んだのです。42節には「十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていたのである。」と、緊急事態に直面したヤイロが、地位も名誉もかき捨て、イエスさまの足もとにひれ伏し、イエスに頼み込む姿があります。このことを聞いたイエスさまが、ヤイロの家に向かわれる途中で、また新たな出来事が起こりました。

 42節~43節には、群衆が周りに押し寄せて来たが、その中に、「ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、誰からも治してもらえない女がいた。」と、医者ルカらしい書き方で、その事態が伝えられています。ここで一つ注目したいこと、それは、先のヤイロの娘が“十二歳ぐらい”と紹介され、いままた、長血を患っていた女性も、“十二年このかた”と何れも「十二」と言う数字を用いて紹介されていることです。十二と言う数字は“完全数”とも言われ、先のヤイロの娘も、十二歳になり、“大人の仲間入りする年齢に達していること”、そして、長血を患っている女性も、“人生の大半と言ってもよいほど”長い間苦しみぬいてきてことに対して、「十二」と言う数字を用いられ、ことの重大さを言い表している、と理解できます。

 44節、「この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。」とあります。“人目を忍んで”と言う言葉がありますが、この女性が十二年間も苦しんできた、その人生の歩みについて思いを馳せますと、旧約聖書のレビ記15章の25節以下には、女性が、生理期間中はもとより、生理期間以外にも出血が止まないときは、“汚れている”とされて、その人は、律法に決められている対応をとることが求められていたのです。そのこともあってこの女性は、世間的にも、不自由な歩みを強いられて来たのではないでしょうか。

 この時、その女性は群衆の中に紛れ込んで、イエスさまに近寄って、後ろから、イエスさまの服の房に触ったのです。それは、イエスさまに何とか、その長血の患いを治していただきたい、との一途な思いのゆえです。44節の後半には「イエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。」とあります。この時女性は、その喜びを全身で、また口で言い表わしたいほどに、嬉しい出来事だったのではないかと思います。

 45節には、以上を受けて、イエスさまは、「わたしに触れたのはだれか」と皆に問い、これに対して「人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが『先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです』と言った。」とあります。

 これを受け、主イエスさまは更に言われました。46節「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ。」とです。人々の強い思い、願いが、その人の信仰に基づいて表されるとき、主イエスさまご自身は、それを体で感じ取られ、また、イエスさまは、力として感じ取ってくださるのです。この時、十二年間も長血を患ってきた女性が、大勢の群衆の中にも拘らず、何とかしてイエスさまに近づきたい、イエスさまの衣の片隅にでも触って、自分の病気を癒していただきたい、その一途な願いが、イエスさまに届き、その女性の信仰に基づいたものとして、聞き入れられたのです。

 イエスさまが、「わたしから力が出て行ったのを感じた」と仰ったとき、この女性の思いは、どうだったでしょうか。次の47節「女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。」とあります。この女性の“震えながら”は決して恐怖心からの震えではなく、喜びからくる震え、だったと思います。そして皆さんの前で、今まで自分が、長い間苦しんできたことを包み隠さず、明かにしたのです。

 これを聞かれたイエスさまは、すべてを証してくれたその女性に向かって言われました。48節「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」とです。主イエスさまは、その御体と御心で、その女性の信仰に基づく願いを聞き入れられ、病の癒しと救いを宣言されました。さらにそれから先の歩みに対しても、「安心して行きなさい」と、エールの言葉を送りました。

 次の段落に入ります。次は、本日箇所の最初に出て来た、会堂長ヤイロが登場し、その娘のことで重大な知らせが入ってきます。49節「イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。『お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。』」とです。“イエスがまだ話しておられるとき”とは先の、長血を患っていた女性との話がまだ終わらないうちに、ということです。“悲喜交々に”という言葉がありますが、そんな悠長な状態ではありません。ヤイロにとって、またその家族にとってその悲しみはいかばかりか、と思います。
自分が先に来ていて、自分の家に来ていただくようにお願いしていたのに、そんな気持ちが交錯し、ヤイロの悲しみをより大きくしていたかも知れません。しかし、ヤイロのことは聖書に一切記されていません。

 ヤイロの家からの悲報を聞かれた主イエスさまは、間髪を入れず、ヤイロに向かって「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる、」(50節)と言われました。このお言葉について、マルコによる福音書の並行記事(5章の36節の原語ギリシャ語では)は、「ただ信じ続けなさい。」と記されているのです。また参考までに、岩波版の聖書には「恐れるのを止めよ、いちずに信頼するのだ、そうすれば彼女は救われよう。」とあります。

 ここで皆さんもお気づきのこと思いますが、このとき、主イエスさまがヤイロに告げておられるお言葉はすべて、「信仰」と、そして信仰に基づく「救い」についてだけです。その後イエスさまはヤイロの家に向かわれ、その後、続いて起こったことが次の51節に「イエスはその家に着くと、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、それに娘の父母のほかには、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。」とあります。その場所とは、娘のいる部屋のことと考えられます。

 次の52節、53節に注目しましょう。「人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。そこで、イエスは言われた。『泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。』人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。」とあります。人々が泣き悲しんでいた、そこには“泣き女”まで来ていたであろう、と記す注解者もいます。

 先ほどここには、「信仰」と「救い」のことだけが記されているとお伝えしてきました、この後主イエスさまが取られた行動とそのお言葉、さらに、その結果がどうなったかを見て参りましょう。54節、55節です。「イエスは娘の手を取り、『娘よ、起きなさい』と呼びかけられた。すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。イエスは、娘に食べ物を与えるように指図された。」とあります。ここで、「霊が戻って」の記述にも注目です。

 また、このとき主イエスさまの、娘に食べ物を与えるようにとの指図は、後々の復活の主ご自身が、“何か食べ物を”と弟子たちに言われた出来事(ルカによる福音書24章41節)を、わたしたちに想起させてくれます。また、このヤイロの娘に起こったすべてのことは、主イエスさまが、ヤイロの娘の出来事を通してお示しくださった、「死者の復活のこと」と理解させてくださいます。「信じなさい、そうすれば救われる」このことをわたしたちは強く信じながら、これからも力強く歩んで参りましょう。

(牧師 永田邦夫)