行いは報われる

2024年4月7日(主日)
主日礼拝『 主の晩餐 』

ヨハネの黙示録 14章6~13節
牧師 常廣澄子

 元旦に能登半島で起きた大きな地震の被害は甚大で、もう三か月を過ぎましたが依然として水道が使えず、不自由な避難所生活をされている方々もたくさんおられ、まだまだ復旧作業が進んでいません。そういう中、先日は台湾でも大きな地震が起こりました。このような地震や津波という自然災害だけでなく、人為的な災害である、国と国との争いや戦争が世界各地で今なお止むことなく続けられています。爆弾を投げ落とされて廃墟となった町や、住む家を追われた人々が難民となって、悲惨な苦しい生活を余儀なくされている有様を見ますと、「神よ、どうか一日も早くこの世に神の国を来たらせたまえ」と祈らざるをえません。今この地球上で起こっている、これら人間世界の有様を私たちはどのように受け留めたら良いのでしょうか。

 世の終わりには、このような事が起こるかもしれないが、いつの日か必ずこの世界は神が支配される世の中になる、神がこの地上を「神の国」としてくださる、聖書はそう語っています。それは神が約束されたことです。その神の国が来るのは、終わりの時であり、主の日とも言われています。その時については、聖書の中のいろんな個所にいろいろ書かれていますが、「その日、その時は、だれも知らない。」(マタイによる福音書24章36節)ということです。

 大変おおざっぱな言い方ですが、旧約聖書で神の時について語られる時は、「やがてその時が来る、いまはまだその時ではない。」というように、未来に向かっての時を想定していましたが、新約聖書では「今や既にその時が来た」というような捉え方になっています。約束や預言に対して、それが成就したとか実現したという言葉で表されているのです。ところが新約聖書の中では、「今や成就した」「今やその時が来た」という表現と同時に、「未だ来ていない」というように、主イエス・キリストの再臨の約束を待望する言い方もあります。ですから、聖書には、「既に」と「今」と「やがて」という時間感覚があるのです。

 先週はイースター礼拝で、死からよみがえられたイエスの復活をお祝いしました。このイエスは、旧約聖書で「やがて来られる方」として預言されていた方です。そのお方、メシアであるイエスがこの地上に来られて、人間として生きられたという現実がありました。そしてそのイエスは、神の人類救済という御業のために、十字架で死なれ、復活という形で天に挙げられましたが、やがてもう一度この世に来られるという約束をしていかれたのです(ヨハネによる福音書14章3節、ヘブライ人への手紙9章28節参照)。ですから今の私たちは再臨されるイエスを待っている時代に生きているといえます。本日は「主の晩餐」がありますが、そこで歌われる讃美歌に「マラナタ」というのがあります。「主よ、おいでください」という意味です。十字架で贖いの死を遂げられ、復活して天に挙げられた救い主イエスの再臨を待ち望んでいる賛美です。

 そこで、私たちが生きているこの時代についてもう一度考えてみたいと思います。旧約時代に預言者たちによって預言されていたお方、救い主イエスが来られたことでその預言は成就しました。そのイエスは十字架の死によって贖いの業を成し遂げ、復活して天に挙げられました。しかしイエスはやがて再びこの地上に来られるという約束を残して行かれたのです。ですから神の時は既に始まっています。既に来ているのですが、未だそれは完成していません。ですから中間時代というとらえ方がなされます。私たちはその中間の時代に生きているのです。今ご一緒に読んでいるこの「ヨハネの黙示録」は、その中間時代にいる私たちが、既に始められ成就している救いの事柄と、今もまだ解決されずに残っている悪の力を、ヨハネが見た天上と地上の二つの世界の有様を見ながら悟っていこうとしているのです。

 当時、地上においては神を信じる者への迫害や弾圧がありました。二千年を経た今もなお人間の陰湿で邪悪な罪の姿がはびこっているのですが、私たちは今、既に天において実現している神の国の姿をしっかり見ておかなくてはなりません。神の御子イエス・キリストによって実現している事柄を、ヨハネが信仰の目で見ているのがこの黙示録だからです。

 天での戦いで敗北したあの巨大な竜(サタン)は、天での居場所がなくなり、地に投げ落とされてしまったのですが、地上に落とされた竜は、二匹の獣を使って、手を変え品を変えてその威力を発揮しているのです。その獣の一匹は海から、もう一匹は地から上がってきました。サタンは世界中どこにあっても食い尽くすべきものを求めて荒らしまわっているということです。この幻は、今日の日本や世界で起きているおぞましいニュース、目に見え、耳で聞く世界の有様と無関係ではありません。

 見えることだけでなく、目に見えない面でも、竜(サタン)の持つ悪の力は、人間の心や魂を蝕んでいます。今の時代、多くの人の心は空っぽで虚無的になっています。そこには希望がありません。神を知らなければ何をよりどころに生きていったら良いのかわからないからです。初代教会時代に信徒たちへの弾圧や迫害が厳しかったことはよく知られていますが、その時代には人々は神を求めて生きていました。しかし今の時代は人々が教会から離れていき、信仰を持って生きること自体が難しくなっています。社会の流れ、時代の流れに押し流されて、人々の魂はどこにいけばよいのかさ迷っているのです。

 さて、ここに三人の天使が登場します。「(6節)わたしはまた、別の天使が空高く飛ぶのを見た。」天使が空高く飛んでいます。高い空は、天にも地にもつながっています。「(6-7節)この天使は、地上に住む人々、あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、永遠の福音を携えて来て、大声で言った。『神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい。』」天使は大声で言ったと書かれています。すべての人に届くように轟くような大きな声で言ったのでしょう。では何を語ったのでしょうか。

 ここに「地上に住む人々」とありますが、もともとの原語では地面にべったり座り込んでいるという意味で、地面で寝そべっている人間を表しています。つまりあらゆることに無頓着、無関心になって生きているすべての人間、まさに獣に支配されている地上のすべての人たちに対して、神の存在を示して、そのお方が来られて裁きの時があるのだから、天地万物の創造主であられる真実の神を礼拝しなさい、と伝えているのです。主の再臨の時が来た時に驚きあわてるのではなく、「神は確かにおられるのだから、神を畏れて生きていきなさい」「その時が来るのだから、目を覚ましなさい」ということです。

 ルカによる福音書を読みますとこのように書かれています。「(17章26-30節)ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。人の子が現れる日にも、同じことが起こる。」ここには、創世記のノアの洪水の話とロトの物語が引き合いに出されています。神の警告に対して誰もが無関心でしたが、唯一ノアだけが神を信じ、神が命じられたとおりに箱舟を作って、大洪水の時を生き抜いて救われたのです。それと同じ様なことが起こると言われているのです。

 この第一の天使が大声で宣言しているのは、6節にあるように「永遠の福音」と言われていることです。すべての人にとっての福音(良きおとずれ)です。一時的なものではなく、永遠にわたる福音です。つまり「今や、罪と死の支配者が倒されて救いの道が開かれた」という宣言です。先週、私たちはイースターの喜びに与りましたが、神の御子イエス・キリストの十字架による死と復活によって、救いの扉が開かれたのです。このお方によらなければ神への道はなく、救いはあり得ないのです。このお方を信じて従って行く時にはじめて、死に勝利した復活の希望が与えられるのです。

 続いて第二の天使が語ります。「(8節)また、別の第二の天使が続いて来て、こう言った。『倒れた。大バビロンが倒れた。怒りを招くみだらな行いのぶどう酒を、諸国の民に飲ませたこの都が。』」このバビロンは地名ですが、ここではバビロンという名で代表されている事柄、あらゆる異教信仰(神ならぬものを拝むこと)や偶像崇拝のことを指しています。偶像崇拝は人々の心の目を惑わし、くらませます。偶像とは人間が作った神様のことだけではありません。お金もその偶像の一つになります。お金は人の心を掴み、その生きる道を誤らせます。お金という魔物に心があやつられていくことは怖いことです。聖書ははっきりと「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイによる福音書6章24節)と語っています。また、お金だけでなく名誉も権力も偶像になり得ます。神ならざるものを大事にしてそれを伏し拝み、それに操られてなびいていく人間の情けない姿がこの社会のあちこちに見られます。第二の天使は「大バビロンが倒れた」と言っていますが、この倒れたという言葉は、大きな地震が来た時に高いビルや建物ががらがらと崩壊していく様子を表す言葉です。第二の天使が宣言していることは、サタンの働きが決定的に跡形もなく崩されたということなのです。

 さらに第三の天使が言います「(9-11節)また、別の第三の天使も続いて来て、大声でこう言った。『だれでも、獣とその像を拝み、額や手にこの獣の刻印を受ける者があれば、その者自身も、神の怒りの杯に混ぜものなしに注がれた、神の怒りのぶどう酒を飲むことになり、また、聖なる天使たちと小羊の前で、火と硫黄で苦しめられることになる。その苦しみの煙は、世々限りなく立ち上り、獣とその像を拝む者たち、また、だれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も安らぐことはない。』」

 ここには神の言葉をきいても、どこ吹く風とばかりに無関心で、時が迫っていることをわきまえず、それだけでなく獣の誘惑に負けて額や手に獣の刻印を受けた者たちは、神の怒りの杯から免れることはできないと言われています。さらには火と硫黄で絶え間なく苦しめられ、昼も夜も安らぐことはないと、恐ろしいことが語られています。このように決定的な裁きが語られているのですが、黙示録は神を信じない者たちに対する永遠の苦しみを教えている教理の書物ではありません。ここで言えることは、当時の皇帝礼拝や偶像礼拝はそれほどに恐ろしい事なのだという、あくまでも警告として語られているのだと思います。

 キリストはすべての人の罪を贖うために十字架に死んでくださったのです。もしキリストが十字架で死んでくださらなかったら、私たちすべての人間は神の怒りのぶどう酒を飲まなければならないのです。人は皆神に背く心を持っています。しかし、神の言葉を信じ、神の小羊によって開かれた救いの道を歩む者、信仰に生きる者には、天で栄光の座が用意されているのです。「(12節)ここに、神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐が必要である。」私たちはいまなお獣が支配しているこの世にあって、信仰を持って生きるようにと選ばれています。私たちは福音を証しするように生かされているのです。この信仰生活には忍耐が必要です。しかしその忍耐は我慢とか辛抱というのとは違って、希望のある忍耐です。

 最後にそんな私たちに天から声が聞こえます。「(13節)また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」“霊”も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」その天から響く大きな声は「書き記せ」と言います。それは書物に書き記せという意味だけでなく、私たちの心にきちんと刻んでおきなさいと言っているのです。

 ここの文章の書き方は、「幸いなるかな、主の中で死ぬ者よ」というように、イエスの山上の説教と同じような形です。それは長生きすることでも、楽に死ねるということでも、事故や事件で死なないということでもありません。幸いであることはただ一つ、主に結ばれていること、主の中にいることです。神の小羊イエスの復活に与ることができる者、つまり主を信じる信仰を持って死ぬ人間は幸いなのです。たとえこの世にあって多くの苦しみや涙があったとしても、主の復活の恵みを知り、主を信じて生きる者にとっては、その死はその労苦を解かれて安らぎを得ることなのです。そのわざが天で覚えられ、その行いが報われるからです。だから主に結ばれて死ぬ人は幸いなのです。何という力強い励ましでしょうか。やがてまちがいなく誰もがその生涯を閉じますが、その時、私たちも天からの声を聞くと思います。「主に結ばれて死ぬ人は幸いである。」この言葉にアーメンと言える信仰を持ち続けたいと思います。

 私たちはまだしばらくこの地上に生きています。地上に生きる上で最も大切なことは、天使が大声で語ったように、神を畏れ、神の栄光をたたえ、神を礼拝することです。主に結ばれて毎日を生きていく、その積み重ねでキリストの復活の命に移されたいと願っています。私たちは今、永遠の福音を聞いているのです。

                                                (牧師 常廣澄子)