光の中の相続

2023年1月1日(主日)
主日礼拝『 新年礼拝・主の晩餐 』

コロサイの信徒への手紙 1章9~14節
牧師 常廣澄子

皆さま、新年明けましておめでとうございます。

 つい一週間前に、私たちはクリスマス・イブ礼拝、そしてクリスマス礼拝をお捧げして、主イエス・キリストの御降誕をお祝いいたしました。その恵みと喜びがまだ心に満ちている中で、2023年が幕を開けました。誰もが、どうか今年こそ平和な佳い年になって欲しいと祈り願いつつ、新しい年を迎えたことと思います。その祈りに主が応えてくださいますようにと心から願っております。

 今の時代は、歴史に残る激動の時代です。新型コロナウイルス感染症はいまだ収束しないままですし、昨年2月にロシアの一方的なウクライナ侵攻によってはじまった戦争は、世界を巻き込んで分断が激化しています。このところの我が国は政治家の辞任が相次いでいて、人々の間には政治不信が起こっています。また日本だけでなく世界的にも民主主義の危機が叫ばれています。いろいろなツールによって人間は自分の意見や考えを世界に発信できる世の中になってきましたが、一方で、そのような人間の思想や良心の自由を、力によって規制しようとすることも起こっています。光が輝く時、闇の力もまた大きくなるのです。今年はいったいどのような年になるのでしょうか。このような時代にあって、私たちはどのように生きていけば良いのでしょうか。

 お読みいただいたところでは、使徒パウロがコロサイの教会の信徒たちのために、心を込めて祈っている言葉が書かれています。このパウロの心からの愛に溢れた執り成しの祈りを、新年のはじめにあたり、私たちへの祈りとして受け止めたいと思います。新しい年、この祈りに支えられて、私たちの教会が前進していけますようにと願っております。

 当時の状況は今とは異なっていますが、キリストを信じる者の生き方について教えられている内容はいつの時代にも通用するものです。「(9節)こういうわけで、そのことを聞いたときから、わたしたちは、絶えずあなたがたのために祈り、願っています。
どうか、“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り」パウロは、この時代に生きる者は、知恵と理解力を持って理知的に目覚めた教会となるようにと祈っています。ここで言う知恵とは単なる人間が持つこの世の知恵ではなく、“霊”による知恵と理解力だと言っています。神の御心を知るためには、この霊的な知恵と理解力がいかに大切であるかが、この祈りに示されています。

 現代は、キリスト教世界といわれる欧米社会にあっても、もはやキリスト教会にたくさんの人が集まっていた時代は去り、若者の教会離れが進み、神への信仰が非常に後退しつつある時代になっています。このところのコロナ禍がそれに追い打ちをかけるように、礼拝出席人数は激減しているのです。しかし、こういう時代だからこそ、教会には御霊による知恵、御霊による力が必要です。実際、その後に「(10節)すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。」と、続いていますように、上からの霊的な知恵や理解力が与えられる時、私たちの生活はすべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、良い業を行って身を結ぶようになるというのです。

 いったいキリストを信じる者の生活では、何が一番大事かと言いますと、人にほめられることではなく、神に喜ばれることこそが大事なことです。神に喜ばれることよりも、人の評価や判断を重んじるならば、キリストの僕とは言い難いでしょう。例え、他の人がどのように判断し、批判しようとも、私たちが成すことは、それが神に喜ばれることかどうかが大切だと言っているのです。

 このことは歴史の終末を生きるとまで言われている、この時代に生を受けている私たちには、やはり大変大切な問いかけであります。いったい私たちは本当に神を信じ、神の御心を求めて生きているでしょうか、新しい年の歩みを始めるにあたって、ここで自分の信仰を顧みたいと思います。私たちにとって大切なのは、真に自分の生活の、生きているぎりぎりの場面で、生きる悩みの只中で神に向かって生きているのか、神に向かって対話しているのかということではないでしょうか。そのぎりぎりのところで、自分の全存在をかけて神に問い、神と語り合う、そういう姿勢が私たちにあるでしょうか。そうあってこそ、私は神を信じている、と言えるのだと思います。そのことを今一度立ち止まって考えたいと思うのです。

「(11-12節)そして、神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように。喜びをもって、光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。」

 ここには「力」という言葉が出てきます。今日では「力」というものが人間社会の大きな問題になっています。いわゆる「核時代」といわれる現代は、「核」という巨大な力が世界と人類の運命を決定するものとして脅しとしても用いられています。一方で、大量の武器や軍艦や戦闘機がなければ国は安全ではない、国を守ることはできないという考えに則り、軍事力を強める国もあります。あるいは、どこかの国の傘下に入って守ってもらえるようにしようという考えの国もあります。人間社会はそのような目に見える観点からしか、力をとらえることができないのです。しかし、神が私たち信じる者に与えてくださったのは、神からの栄光の力です。神は何事に対しても喜び感謝し、耐え忍ぶ力を与えてくださったのです。クリスマスに天から降って来られた御子イエスは光として来られました。光は何物にも負けない力を持っています。闇はこれに勝たなかったと言われています。その神の光の中に私たちは入れられているのです。また光によって汚れや不純物は取り除かれ、神を信じる者は聖なる者とされています。

 ですからキリストを信じる私たちは、すなわち歴史を支配したもう神を信じる私たちは、希望を失わないのです。ただ自分ひとりが望みを失わないようにと頑張っているだけでなく、こういう時代にあっては教会の存在自体が希望にならなければいけないと思います。究極の勝利は神にあるという、そういう確信に立って生きていくことが神から求められているからです。真の神への信仰に固く立って、この世の暗闇の力に対抗していくことが私たちに求められていることではないでしょうか。

「(13-14節)御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」キリストを信じる信仰によって、神は私たちをこの世の闇の力の中から引き出してくださり、御子の光の支配下に移してくださったのです。そして贖い、すなわち罪の赦しを与えてくださいました。これが福音であって、そこに立つのが教会です。本日の礼拝で私たちは「主の晩餐」に与りますが、御子による贖い、すなわち罪の赦しを受けているということが、世の暗闇から引き出されているという現実に他なりません。その暗闇の力の源は、人間の罪から来る暗さだからです。暗闇というのは、人間が持つ恐ろしい野望や欲望というこの世の力を用いて隣人を襲い、他国を蹂躙している人間の罪でもあるのです。

 歴史的な危機と言われる現在のこの世界や教会の状況を、キリストを信じる者としてどう考えたらよいのか、どう受け止めたらよいのか、いろんな場で、教派を越えていろいろな神学者や牧師や司祭が語っています。その中である神父が語られたことが大変心に響きました。

「世界にあるすべてのものは、大海のようなもので、常に流れている。その一端に触れれば遠い遠い世界の別の端でそれがこだましている。このように神がお創りになられた世界はもともと一体であり、人間も一つにつながっているのだ」と説かれ、一つの出来事を話されたのです。ある時、この神父に一人の青年が「神父様、どうして戦争が起こるのですか。」と尋ねたそうです。そこで先ほど話をしてから「一人の人間が小さな憎しみを克服できないからです。」とお答えになられたというのです。

 このように世界で起きている争いは、どこかでつながっています。もし、自分がいまここで憎しみを克服できたら、赦しの連鎖は海を越えて、世界の果てで誰かが助けられるかもしれません。小さな小さな出来事かもしれません。しかし、それがキリストを信じる者の生き方だと思うのです。
日々、世界の悲惨な有様をニュースで見聞きしている私たちは何ができるでしょうか。祈るだけで何が変わるのですか、祈ってどうなるのですか、と聞かれることもあります。しかし、もし人間が神に祈らなかったら、世界はとうの昔に壊れていた、と言う方がおられるように、成すすべもないような状況であっても、私たちは神の力を信じて祈らなければならないのです。それがキリストを信じる者に課せられた務めです。

 従って、この問題の根本にある課題は、人間の罪の赦しなのです。闇の力を打ち破って、私たちを御子の支配下に移してくださる神の力、御霊の力こそが私たちの希望です。この神の栄光の力に依りすがる信仰、その力によって立てられている教会こそがこの世の希望であることをしっかりと受け止めたいと思います。

 先ほど礼拝の招詞に詩編67編を読んでいただきました。「神が私たちを憐み、祝福し、御顔の輝きを わたしたちに向けてくださいますように あなたの道をこの地が知り 御救いをすべての民が知るために。」新年の初めに、こうして共に集まって主なる神を礼拝している私たちには、神の光と祝福が豊かに注がれています。「あなたの道をこの世が知り すべての民が御救いを知るようになりますように」この世界を統べ治めておられる大いなるお方に向かって、心から、この世に生きるすべての人の救いを祈りたいと思います。


(牧師 常廣澄子)