聖なる者の祈り

2023年2月5日(主日)
主日礼拝『 主の晩餐 』

ヨハネの黙示録 8章1~5節
牧師 常廣澄子

「ヨハネの黙示録」の著者ヨハネは、今、御霊に感じて、霊の目に映し出されているものを見ています。そして天上の礼拝の様子を私たちに教えてくれています。その祝福に満ちた礼拝の様子は、地上で神への信仰の故に苦しんでいる者たちにとっては大きな慰めであり、忍耐や希望を与えるものでした。

 当時のローマ帝国は皇帝ドミティアヌスの時代で、クリスチャンたちが迫害され、多くの人の血が流されていました。そのような時に、天上での荘厳な礼拝の様子を見ることは大きな力だったのです。ヨハネは天上の礼拝を実に生き生きと描きだしています。玉座におられるお方はすべてを支配される主なる神であり、その周囲を四つの生き物が飛びかけり、このお方の周りには二十四人の長老たちがひれ伏し、冠を捧げて礼拝しています。また、おびただしい数の聖なる信徒たちが捧げる賛美の大合唱と信仰告白がとどろいているのです。玉座と四つの生き物と長老たちの間に立っておられるお方は、救い主御子イエスですが、そのお姿は無残に屠られた痛々しい小羊の姿であられました。しかし、そのお方を囲んでいるおびただしい群衆が捧げる大いなる賛美と共に捧げられている礼拝の光景は、地上で苦しんでいるクリスチャンたちにとっては大きな励ましであったに違いありません。信仰に立ってこの世と戦う意義や、死をも恐れずに信仰を証しする意義を、しっかり受け取ったのではないでしょうか。なぜならば、御座の中央におられるお方の祭壇の下には、殉教者たちの霊魂がいたのです。

 十字架につけられて屠られた神の小羊イエスは、七つの封印で封じられている巻物を受け取って開くことができる唯一のお方でした。人間にはその巻物を開くことができる人は一人もいなかったのです。巻物が開かれるということは、こののちに起こることが明らかになるということです。巻物に記されているところに従って、これから起こることが宣言されていったのです。小羊イエスがこの巻物を開くことができるのは、彼が勝利を得たからです。そして、もし救い主イエスがおられなかったら、私たち人間は、宣言されているようなそのような恐ろしい災いの中で、ただ滅びるしかない存在でした。しかし、救い主イエスの御業によって私たちは希望の光が与えられているのです。今私たちが読んでいる黙示録の出来事、これらすべての幻は、屠られた小羊イエスによって示されています。このことを忘れてはいけないと思います。

 しかしながら、お読みになっていくとおわかりのように、黙示録全体に記されている災いは人間には理解しがたい事ばかりです。これら一つ一つを歴史上の事件や出来事に結びつけて解釈する人たちもおられますが、そのような読み方は大変危険です。これらは特定の事件や出来事を預言しているのではなく、神の審きとは何であるかということの根本的な事を語っているのです。

 繰り返しますが、今ヨハネが見ている天上の礼拝、つまり天の大法廷は、人間世界の最後の裁きや終焉を描いているのではありません。そこに示されていることは、人間世界を支配しておられる主なる神が、今地上にいる私たちにその御腕を伸ばしておられるということを知らせて警告し、神のもとに立ち返るように勧告するものとして記されているのです。

 整理してみましょう。6章までには、6つの封印が一つひとつ解かれていったことが書かれています。7章にはキリストの贖いを信じて救われた人のことが記されていました。そこで明らかになってきたことは、まず、地上でその信仰と証の故に殺された人たちは、白い衣をまとっていました。小羊の前で、白い、汚れのない義の衣を着せられているのです。また彼らの額には印が押されていました。これは神が所有者であることを表しています。彼らを保護するお方が誰かをはっきり示しているのです。また、彼らを救って守ってくださるお方は、死を越えてなおその先の永遠までも彼らの牧者としてお導きくださることが明確に示されています。(7章17節参照)

 私たちは今ここに、それぞれ一週間の働きや生活を終えて、主の日の礼拝に集まってきました。私たちはこの時に、ただ働きの手を休めるだけではなく、いろいろなことに追われていた魂が静められ聖められていくのです。信仰はこの世からの逃避ではありません。神を礼拝するということは、一旦この社会のしがらみから手と目を離して、曇ってしまった魂の目を洗い清め、霊の目で神を仰ぎ、神の世界、ゆるがせにできない神の現実を見る時なのです。私たちは今朝何をみるでしょうか。

 今朝は8章1節からお読みしましたが、ここで遂に最後の7番目の封印が解かれました。ここには不思議な情景が描かれています。「(1節)小羊が第七の封印を開いたとき、天は半時間ほど沈黙に包まれた。」とあります。「天は半時間ほど沈黙に包まれた」というのは、いったいどういうことなのでしょうか。半時間と書かれていますが、これは時間の長短ではなく、神が必要とされた時間だと考えられます。この沈黙の時間をどう考えたらよいでしょうか。

 考えれば私たちの周囲にはいつも何かしらの音があります。人の話し声、人が通る足音、車の音、パトカーや救急車のサイレン、あるいは電気製品が発する音等々、様々な音に囲まれています。そしてそれ以上に忙しいのは心の中です。心の中にもいつも声がしています。私たちはいつも何かを考えていて、絶えずあの事この事を思いめぐらしているのです。ですから静まる時がありません。

 しかしたとえどのような事柄であっても、真実が明らかにされるためには、しばし静まらなければなりません。沈黙というのはゼロになるときです。創世記1章をみるならば、世界の初まりの時、神の言葉が発せられる前にはすべてのものは静寂の中にありました。詩編62編6節では、詩人が「わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。」と歌っています。ゼカリヤ書2章17節では、天使がゼカリヤに言いました。「すべて肉なる者よ、主の御前に黙せ。主はその聖なる住まいから立ち上がられる。」またゼファニヤ書1章7節では、主の言葉がゼフェニヤに下りました。「主なる神の御前に沈黙せよ。主の日は近づいている。主はいけにえを用意し、呼び集められた者を屠るために聖別された。」

 このように、聖書の中では、神の前に立とうとするすべての者に対して、神は沈黙を求めています。一切の言い訳や申し開きとか自己主張を止めるようにと神は言われ、ただ「主よ、お語り下さい。私は聞きます。」という姿勢を求めておられるのです。徹底的に自分を空しくして、初めて主の御声を聞くことができるのだということです。魂の沈黙、それは神の言葉を聞くための備えです。頭も心も魂も空っぽにしてただ神に向かう時、そこに神の語りかけがあるのです。私たち人間はいつでもいろいろなことをこじつけて言い訳し、あれこれと自分の理屈に合うように言い立てます。しかし人間の横着さ、高慢さは神の前では斥けられます。私たちはまず神の前に沈黙しなければならないのです。主の前に静まることです。神は天におられ、私たち人間は地にある者だということをわきまえたいと思います。

 ヘンデルのメサイヤの中で、最後の「ハレルヤ・コーラス」の前に一瞬、沈黙の時があります。その時、すべての音がぴたっと止まり、一瞬の静寂が訪れます。この「ハレルヤ・コーラス」の前の一瞬の沈黙は、ヨハネの黙示録のこの御言葉から来ていると言われています。天における沈黙に合せて、地上の人間のいっさいの業と言葉が消えて、神の光が輝くのはいつのことでしょうか。

 さて次に明らかになって来たのは、「(2節)そして、わたしは七人の天使が神の御前に立っているのを見た。彼らには七つのラッパが与えられた。」続いて、「(3節)また、別の天使が来て、手に金の香炉を持って祭壇のそばに立つと、この天使に多くの香が渡された。すべての聖なる者たちの祈りに添えて、玉座の前にある金の祭壇に献げるためである。」ここには七人の天使と、もう一人の天使が登場してきます。七人の天使にはラッパが与えられました。しかしすぐにはラッパを吹きません。その前に聖なる者たちの祈りが神の御前に立ち上るのです。もう一人の天使が来て、手に金の香炉を持って祭壇の傍に立つと、多くの香が渡されました。すべての聖なる者たちの祈りに添えて、玉座の前の金の祭壇に捧げるためです。

 金の香炉にはたくさんの香が盛られ、祭壇に捧げられるのです。香を捧げることと聖徒たちの祈りが結びついています。そもそも香とは何でしょうか。5章7-8節にそれが書かれています。「小羊は進み出て、玉座に座っておられる方の右の手から、巻物を受け取った。巻物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、竪琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖なる者たちの祈りである。」香は、聖なる者たちの祈りなのです。8章4節では、「香の煙は、天使の手から、聖なる者たちの祈りと共に神の御前へ立ち上った。」とあり、香は、キリスト者の祈りとして天上で覚えられていることがわかります。

 旧約時代には、神に香ばしい香りを捧げたことが律法の書に出てきます。いけにえの動物を捧げると、それらを焼いて、その立ち上る煙、その匂いを嗅いで神の怒りを和らげるなだめの供え物したのです。レビ記にそのことが書かれています。1章9節「奉納者が内臓と四肢を水で洗うと、祭司はその全部を祭壇で燃やして煙にする。これが焼き尽くす献げ物であり、燃やして主にささげる宥めの香りである。」私たちの生活でも、お客さまが来られる時に、香りのよい香木を焚くことがあります。今では消臭剤や芳香剤がいろいろあります。良い香りで気持ちを和らげていただくのです。レビ記16章13節には、「主の御前で香を火にくべ、香の煙を雲のごとく漂わせ、掟の箱の上の贖いの座を覆わせる。死を招かぬためである。」と書いてあります。ささげた動物の血によって赦しを乞い、それを焼いて香ばしい香りを宥めの供え物とし、その薫香によって死を免れることができたのです。

 このことをパウロはエフェソ信徒への手紙5章2節で「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまりいけにえとしてわたしたちのために神に捧げてくださった」というように語っています。つまりパウロは、私たちの祈りを天にまで届かせてくださるお方として、イエスご自身がまずご自身の身体を香りのよい供え物として捧げて下さったのだと言うのです。ですから私たちは、イエス・キリストの御名によって祈ることができるのです。私たちの祈りは、イエス・キリストの御名によってとりなされて祈るときに初めて、天に立ち上る香ばしい香りとして神のもとに届けられるのです。真の神を信じる聖なる者たちの祈りは、こうして香ばしい香りとして受け入れられます。天に至る祈りの道筋がつけられているのです。

 祈りについては、また別の機会にお話ししたいと思いますが、人に聞かせる祈りではなく、神の前にある私たちの正直で赤裸々の心が大事です。ローマの信徒への手紙8章28節でパウロは「私たちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執りなしてくださるからです。」と言います。私たちは辛くて苦しくて祈れない時があります。言葉が出て来なくてただ神の前で泣くだけの時もあります。そのような呻きの時には、聖霊が私たちの心の祈りと共に神の前にのぼってくださるというのです。何と感謝なことでしょうか。

 次には驚くべきことが告げられています。「(5節)それから、天使が香炉を取り、それに祭壇の火を満たして地上へ投げつけると、雷、さまざまな音、稲妻、地震が起こった。」祭壇の火を満たして地に投げつけるとは穏やかならぬことです。火を投じることは裁きを意味します。私たちには神に受け入れられる恵みの賜物としての祈りが与えられているのに、これを粗末にしたり、祈らないとしたら、裁かれるのは当然です。その結果、「雷、さまざまな音、稲妻、地震が起こった」のです。今地上には様々な災いが起こり、歪みや亀裂や裂け目がたくさんできていますが、イエス・キリストの贖いのゆえに許されている祈りが無視され、その信仰が生かされていなければ、そこに様々な裂け目が生じるのは当然ではないでしょうか。

 人間社会が直面している世界規模の争いの中にいる私たちに対して、神は今朝も、私たちに主なる神を礼拝する静寂の時を与えてくださいました。そして、この礼拝から主なる神の元に「聖なる者たちの祈り」が立ち上っているのです。一切の地上的な可能性が消え失せた時でも、私たちには「祈り」という天の神との交わりが存続することを感謝し、心から主にある平和を祈り続けたいと思います。

(牧師 常廣澄子)