すべてを神の栄光のために

2023年6月25日(主日)
主日礼拝

コリントの信徒への手紙 一 10章23節~11章1節
牧師 常廣澄子

 2018年の秋に、特別音楽礼拝(賛美:澤田ルツ子さん、ピアノ伴奏:玉川早苗さん)があり、その時、ラテン語「ソリ・デオ・グローリア!」日本語に訳すと「ただ神にのみ栄光!」という言葉を教えていただきました。神を信じる信仰によって数多くの素晴らしい音楽を世に出した、ヨハン・セバスチャン・バッハは、自分の作った曲の最後にその頭文字の「S・D・G」を書き残しているそうです。これは今日お読みした聖書個所で、パウロが語っている言葉に通じるものです。「(31節)だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」これは神を信じるすべての人が、その人生のモットーにしている言葉かもしれません。 

 今までにもお話してきましたが、コリント教会においては、「すべてのことは許されている」という自由主義を旗印にして、弱い人たちのことを顧みることもしないで自分流のやり方をしていた人たちがいたようです。そのような行為に対してパウロはここで「すべてのことが益になるわけではない」と語り、それに応酬しているのです。今まで繰り返し何度も出てきた「すべてのことが許されている」「私たちは自由だ」という主張が、様々な分野で秩序を乱していることに対してパウロは黙っていることができなくなったのです。「(23-24節)『すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない。『すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。」

 確かに私たち人間は自由です。一人ひとりには自由な心や行為が認められています。すべてのことが許されているのです。そのような自由の側面からいうならば、偶像への供え物に対しての態度についても自由であるとパウロは語っています。「(25-27節)市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。『地とそこに満ちているものは、主のもの』だからです。あなたがたが、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。」

 パウロは、自由を謳歌している強い人に対して繰り返し繰り返し、それを牽制する言葉を語っていますが、一方では、弱い人に対してもっと大胆に行動することを勧めています。「神の国は飲食ではない」ということを自覚することによって、日常生活でのタブーを克服していく自信をつけて欲しいからです。

 食事に関していえば、律法という教えにずっと縛られていたユダヤ人キリスト者の方が、この点について弱さを持っていました。それでパウロは詩編24編1節を引用して「(26節)『地とそこに満ちているものは、主のもの』だからです。」と語り、食べ物の自由について、万物を造られた神の創造の秩序こそが、人間が造ったいろいろなタブー(禁忌事項)に優先するものであることを教えています。またパウロはテモテへの手紙一4章4節でも「というのは、神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。」と教えています。

 このように、8章から延々と食物についての論議が続いているのですが、これは人間にとっていかに「食」(食べること)が信仰に大きな影響を与えているかを示すものです。パウロは、神殿に供えた物を食べて良いかどうかの可否の問題だけでなく、市場で売られている肉についても言及しています。

 経済的に豊かなコリント市を支えていたのは市場であり、コリント市の繁栄は市場の力に与っていたと思います。都市はどこでも食物の消費地です。コリントという都市も同様で、郊外の生産地から持ちこまれる農産物、畜産物、海産物が市場で売買され、そこはコリントの中でも最も活気のある場所になります。そして各家庭では、自分の家族だけでなく、時には親しい人を招いたり、教会の仲間たちを招いて共に食事をする機会があったことでしょう。何かの行事やお祭りになればさらにいっそう食事の回数やその人数が増えることになります。

 このような民族や宗教を超えた「食」の広がりに対して、これは食べてもよいがこれは食べてはいけないという、窮屈な考えを持ち出すと、食事がまずくなるのはどこの国も同じです。そこでパウロは信仰によって「食」のマナーを教えているのです。これは弱い人を視野に置いて考えられていることがわかります。「(25節)市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。」これは市場で売られている物を買ってきて家で食べる場合のことです。

 また、未信者のだれかに招待されて、彼の家で食事の席に着いた場合のことが27節に書かれて
います。「あなたがたが、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。」食事の時に、目の前に出された食物に対して、あれこれ詮索することは、作った人に対して大変失礼になることは昔も今も変わりません。詮索するのでなく、感謝の言葉をこそ口にすべきです。

 食習慣や食べ物の違いは、各家庭によって、あるいは国や民族、地域によって、さまざまに異なりますが、それを受け入れ、壁を乗り超えることによって、お互いの間に融和が生まれてきます。外国に旅行した方は、その国独自の食べ物を出されて、それを食べることで理解し合い、仲良くなりますし、日本の国の中でも地方によっては同じ食材でも食べ方が異なります。それを、こういう食べ方はしない、といって拒絶していたら、親しく話すことはできません。同じように、神にある平和・シャロームを目指している信仰者の間で、食物についての詮索があるとしたら、不信感や不和をもたらすことになりかねません。そこでパウロは食べることは主のために食べるのだから、何でも食べなさいという大胆な発言によってタブーを破っているのです。

 けれどもここで、パウロは「ただし」という注釈をつけています。それはもし事前に「これは偶像に供えられた肉です」とわかっていたら食べるのは止しなさいということです。「(28節)しかし、もしだれかがあなたがたに、『これは偶像に供えられた肉です』と言うなら、その人のため、また、良心のために食べてはいけません。」

 出されたものは何でも食べてよいけれども、この肉は偶像に捧げられた肉だとはっきり言われた
のなら、これを食べてはいけないというのです。自分は何とも思っていないけれども、そこにいる人の気持ちを考えて、もしその人の良心を壊すようなことになるなら、止めなさいと言っているのです。この場合には、「そのような肉を食べることはいけないことだ」という気持ちを捨てきれずにいる人からそう言われたということが想定されています。他人の良心を壊したり傷つけることは許されないのです。つまり、そのような人を悩ませ、不安がらせるくらいなら、食べない方が良いということです。神が造られた物だ、何でも食べてよいのだ、と大胆に強く言いきるパウロと、一人の人の心に宿る恐れや不安感を思いやる繊細さ、パウロの心にはこの二つが同居しています。

 このところには、大切な真理が含まれていると思います。自分だけのこと、自分だけに関わる問題である場合には何の心配もせずにやってよいかもしれないが、それがもしだれか他の人のつまづきになるようであるなら、やってはいけないということではないでしょうか。

 キリスト者の自由ほど現実的なものはありません。神を信じて生きている者は本当に自由ですが、この自由は自分の為だけでなく、他者を助けるため、他者を生かすためにこそ用いられるべきものです。他者に衝撃を与えたり、誰かを傷つけるものであってはならないのです。人間は自分自身に対して成すべき義務を持っていますが、それ以上にもっと大きく他者への義務をも持っているということを忘れてはならないのだと思います。

 ここで、市場に流出している肉の中に、どうして偶像に供えた物が入っているのか不思議に思うかもしれません。信者が神殿に捧げた犠牲の動物は、神殿に仕えている祭司に与えられるのですがそれが市場に流されることが問題の原因になっています。それを全く気にしない人もいれば、良心の問題として食べることを拒否する人もいるわけです。人間は信仰を持っていても、良心という心の自由がありますから、この問題についてパウロに質問したのです。そしてその答えが「何をするにしてもすべて神の栄光を現すためにしなさい。」ということだったのです。

 律法という縛り、悪霊や偶像の問題等、当時の多くの人達には、真の神を信じるにあたって立ちふさがっているいろいろな課題があったのですが、パウロがコリント教会の人達にこのように「食」の自由について語っていることは、多くの人達をタブーから解放しました。食べることや飲むこと等「食」に関しては、人を惑わす原因となることが古代では多くあったからです。ですからわざわざパウロが「(32節)ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。」と語っているのです。

 このようにパウロが語った結果として、人々に「食」のタブーからの解放があったことは無視できません。ここには代表的にユダヤ人とギリシア人という二つの国民が書かれていますが、民族によっては「食」のマナーどころか、生活上のいろいろな習慣や方法も異なっています。いつまでも「食」のことにこだわっているならば、真の神について知ることすらできません。神を信じる信仰に入れないどころか、信仰に入ってからも良心の呵責に耐えられないという状態に置かれたならば、何のための信仰かと言わざるを得ません。パウロの願いは人々を救いに導くこと、異邦人の伝道です。そのために「多くの人の益を求めて」いるのです。「(33節)わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから。」

 このように「自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしている」と語るパウロは、何という驚くべき寛容な精神の持ち主でしょうか。しかし、この寛容の精神、人の益を求め、すべての点ですべての人を喜ばそうとするやわらかい受容の心を発揮するためには、パウロ自身の自由が制限されるという自己犠牲が払われなければならないのです。この寛容な心と自己犠牲をも厭わない心の間にこそ神の栄光が現れるのではないでしょうか。

 パウロはここで神を信じて生きる者の行為について、大事な原則を二つ明らかにしています。一つは「食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」ということ、二つ目は「自分の益ではなく多くの人の益を求めなさい。」ということです。これらは決して簡単な事ではありません。ではどうしたら良いのでしょうか。それは私たちが神の前でありのままの姿でいること、つまり本当に自由になることです。そのためには神の前での謙遜な心が大切です。謙遜は自分の立場をなくすことではありません。自分の考えを持ちながら、相手の立場を生かすことです。自分の益ではなく、相手の益を求めることはさらに難しいことですが、自分の救いの完成を願い、多くの人が救われることを願っている心には、神が豊かに働いて助けてくださいます。

 さらにパウロは「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」(11章1節)とまで語っています。パウロはフィリピの信徒への手紙3章17節でも「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。」と語っています。これは自分がキリストのような人格になっているからそのように見倣いなさい、ということではなく、自分がキリストに救われて生きている姿を見て欲しいということです。置かれている場所も時代も異なりますが、私たちもまたパウロのように主の救いに与って、「ソリ・デオ・グローリア!」(ただ神にのみ栄光!)の心を持って生きていけたらどんなに幸いなことでしょうか。

(牧師 常廣澄子)