わたしの記念として行え

2023年7月16日(主日)
主日礼拝

コリントの信徒への手紙 一 11章17~26節
牧師 常廣澄子

 多くのプロテスタントの教会がそうであるように、私達の教会でも「バプテスマ」と「主の晩餐」という二つの礼典を大切に守っています。そして「主の晩餐」の礼典を執り行う時には、必ずこのコリントの信徒への手紙一の11章が読まれます。「主の晩餐」の場面は各福音書に書かれていますが、「主の晩餐」の礼典はこの御言葉に基づいて守られてきたからです。今朝は、この御言葉について学びながら、私達はどれだけの重みをもってこの御言葉を受け止めて「主の晩餐」に与っているのか考えていきたいと思います。

 ここ3年程は、新型コロナウイルス感染症の感染防止のために、「主の晩餐」の礼典を休まざるを得なかった教会が多かったようですが、5類に移行したことで、再びもとのように「主の晩餐」の礼典が執り行われているようです。私達の教会では、昨年5月から感染防止対策をしながら実行できていることはとても感謝な事です。私達が「主の晩餐」を大切にしていますように、初代教会の人達も「主の晩餐」を重んじていたようです。

 御言葉から、コリント教会で起きていた出来事を見ていきたいと思います。当時は、主イエス・キリストの復活を感謝し記念する日曜日の夜、仕事を終えた人達が教会に集まって、それぞれ持ち寄った物を分け合いながら一緒に食事をしたようです。当然のことでしょうが、一人ひとり仕事の終わる時間が違うので、早く来る人もあれば、遅くなる人もいたでしょう。遅くまで働かないといけない人こそ、かえって貧しい人が多くて、しかも持参する食べ物もわずかであっただろうと想像されますが、早くから来ている人達は、のどが渇き、お腹がすいて先に食べ始めてしまう人がいたようです。「(21節) なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。」

 ここを見ますと、問題となっていることは、今日私たちが守っている「主の晩餐」とは少し異なっていることがわかります。それは文字通りの「晩餐」(会食)なのです。しかもそれがここでは単純に飢えを満たすためだけの食事になってしまい、お腹がすいていた人は先に飢えを満たし、その上さらに「酔ってしまう」ほどお酒を飲んでいることがわかります。

 つまり初代教会においては、「主の晩餐」はキリストを信じる者達の会食と合わせて行われていたのです。これら二つは密接な関係にあり、事実上は一つの式典とみなされていました。また、この食事は各自が食物を持ち寄って互いに分かち合うことによってなされていました。こうして彼らは兄弟愛を増し加え、キリストの死を覚えながら、互いの信仰を励まし合っていたのです。

 ところがコリント教会では、互いに分かち合い励まし合うどころか、持って来た食べ物を我先にと勝手に食べてしまう者までいたというのです。富んでいる人と貧しい人では、当然持ってくる食べ物にも差があるでしょう。豊かな人は贅沢な物をたくさん食べてしまい、貧しい人達を顧みなかったようで、遅く来た者はほとんど食べる物がなくて空腹で帰って行く有様だったのです。このような状態では、晩餐の本来の目的である聖徒の愛の交わりは不可能です。「(20節)それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。」とあるとおりです。

 パウロは今起こっている困った事柄について語る前にまず、より一般的な形で、分争の問題を取り上げています。「(17節) 次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです。」とまで断定しています。言い換えれば、主の教会に共に集まる時に与えられるはずの祝福(良い結果)が、呪わしい事(悪い結果)に代わっているということです。このことはパウロにとっては実に心外な事だったのです。

「(18節)まず第一に、あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。わたしもある程度そういうことがあろうかと思います。」と語り始め、続けて意外なことを語っています。「(19節)あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。」という言葉です。ここでは、分争や分派のあることがある程度肯定されているかのように思われます。これは他には見られない言葉だと思います。確かに分争や分派は必ずしも常に悪いこと否定的な事柄であるとは限らないかもしれませんが、教会の中で何が正しいか悪いかという是非が問われ、良いか悪いかが明示されるためには、分争も分派も止むを得ないというこの論理は珍しい発言だと思います。

 さて、パウロは再び本題に入っていきます。教会で行われる「主の晩餐」に対してその秩序の乱れを警告しています。「(22節)あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません。」これを見ますと、教会での晩餐という食事は、ある人々にとっては自分の家での食事を節約するための手段として利用されていたようです。いったいこういう人達の態度はどうしたことでしょう。これでは教会を利用している者、教会を軽んじている者、同時に貧しい人を飢えさせて平気でいる者と思われても仕方がありません。言語道断な振る舞いです。パウロが嘆くのも無理はありません。

 確かに空腹を抱えて、しかも自分よりも遅れて来る人達を待つのは辛いものです。そういう人を無視して自分のことだけを考えていれば簡単ですし楽です。いつも他の人のことを気遣い思いやるのは面倒なことです。しかし、こうした利己心やわがままは、教会の交わりやその成り立ちを崩してしまいます。実際コリント教会の状態は、「主の晩餐」の真の意義と精神を踏みにじる行為でした。
 
 どうしてこのようなことになってしまったのでしょう。パウロは彼らの心から消えてしまった「主の晩餐」の精神を示していきます。「主の晩餐」を守るということはどういうことなのか、どのような根拠を持っているのか、どのような意味があるのかを語っていくのです。パウロはエルサレム教会から受けた「主の晩餐」についての伝承を伝えます。それはイエスが引き渡される夜の厳粛な出来事でした。「(23-24節)わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。」ここにある「パンを取り」「感謝の祈りをささげ」「それを裂き」「言われた」これらはどれもイエスのなさった行為そのものです。パンが「あなたがたのためのわたしの体である」ということは、イエスが私達のために御自分の体を与えられた、つまり私達のために死んでくださったということで「主の晩餐」の根本的な意味です。これは神から人間に与えられる真実の慰めの言葉です。

 杯はこれをいっそう明確にしています。「(25節)また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。」ここにある「新しい契約」というのは、エレミヤ書31章31節の御言葉「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。」から来ています。モーセによってイスラエルと神の間にたてられた古い契約に対応するもので、イエスは御自分が流す血によって、神と御自分を信じる者との間に新しい契約を立てて、彼らを救おうとされたのです。これは「主の晩餐」を導かれるお方はあくまで主キリストであることを示しています。言い換えれば、「主の晩餐」の本質と真実は、あくまで人間を超えた主キリストにあるということです。その意味において、それは文字通り「主の晩餐」なのです。

 ですから、この「主の晩餐」が正しく行われるためには、何よりも主に対する真実の信仰と愛がなければなりません。もともと、一日の勤めを終えて、自分の家に帰ることもせず、疲れも厭わずに教会に皆で共に集まるのは、ただ食事をして気の合った仲間と酒を飲んで楽しく過ごすためではありませんでした。それは何よりも主イエスにお会いするためだったのです。生ける主の恵みに与ることでした。「主の晩餐」に与るのは、生ける主ご自身に他ならない神の恵みを、私達自身のものとすることです。主の恵みを飲み、また主の恵みを食べて、私達の体も魂もその恵みに生きるのだということです。

 私達は、私達のことを片時もお忘れにならず、私達のために御自身の死をも厭わなかった愛の神イエスのことを忘れがちです。私達がいかに忘恩の輩であるかに気づかなくてはなりません。私達は「主の晩餐」に与る時、つまりパンを食し杯をいただく度に、主イエスが自分のような罪人のために十字架に架かられたことを繰り返ししっかり心に留めたいと思います。

 また、そのような信仰者の集まりである私達は「(26節)だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」という使命を担っているのです。私達は主が来られる終わりの日まで、「主の晩餐」を守り続け、「主の死」を告げ知らせなければなりません。「告げ知らせる」というのは言葉を変えると「説教する」ということです。そして説教の題は「主イエスの死」です。説教する人は誰でしょう、「主の晩餐」に与る私達すべての者です。つまり「主の晩餐」に与るということは、主イエスの救いを信じる一人ひとりが主イエスの十字架の死を証しているということなのです。

 この「主の晩餐」には、ここ以外に人間が生きる道はなく、ここ以外に神の恵みを知る道はないということがはっきり示されています。それが教会に生きる者の喜びです。この使命の自覚と喜びと神への畏れ、これらは皆一つのことです。現代は宗教というものに対して拒否感や警戒感を持つ人が多くなり、教会の力も権威もなくなってきました。しかし他の人達がどう評価しようと、何よりも私達が今失っているのはまさにこのことではないかと思っています。主が来られる時まで、この世を生きる現実的な力を持つ主イエスの信仰に立って、神の恵みの事実を証しつつ、主の死を告げ知らせて生きていきたい、私達はそのような心を強く求めていきたいと思います。

 さらに、主が制定された晩餐の意義を説いた後に、パウロはこのように語っています。「(27-29節)従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。」ここで言われている「主の体と血」というのは、単なる物質を指しているのではありません。パンと杯が分かたれる時、そこに主ご自身が共にいてくださるということを現わしています。私達が「主の晩餐」の礼典に与る時、そこに復活の主が伴っていてくださるのです。

 宗教改革者カルヴァンは、この「主の晩餐」にふさわしい生活をするということを、とりわけ熱心に考えた人のひとりです。つまり、28節に「自分をよく確かめたうえで」とありますように、自分を吟味することです。主の前にある自分をわきまえて、自分を正しく知ることです。高ぶることなく、また恐れることなく、主の御心に添えない弱くて醜い自分をありのままに主の前に捧げることです。それは確かに難しいことかもしれませんが、主ご自身がそのような弱い私達に常に伴っておられることを悟ることが本当の信仰だと思います。

 主の記念として行う「主の晩餐」は、その中にあるパンや杯という物質や、そのやり方や形式が大事なのではありません。むしろそのような儀式めいたことよりも、その礼典を支え、生かしている中味の精神こそが大事なのです。それは私達人間への救いが、「主イエスの死」によって与えられたという、神の深い愛と恵みを覚えることです。新しい週もこの尊い愛を感謝しながら、主が与えてくださったそれぞれの道を歩んでまいりたいと願っております。

(牧師 常廣澄子)