天の神殿が開かれた

2023年8月6日(主日)
主日礼拝『 主の晩餐 』

ヨハネの黙示録 11章15~19節
牧師 常廣澄子

 8月に入りました。8月は平和を思う月です。それは78年前の8月6日と8月9日に、恐ろしい原子爆弾が広島と長崎に投下され、一瞬のうちに数えきれない多くの人の命が奪われ、数えきれない多くの人が悲しみと苦しみを背負って生きていかねばならなくなったという事実があり、戦争の悲惨さや愚かさを思うからです。私達は二度と同じ間違いをしてはならないと慰霊碑の前で平和を誓っています。しかし、世界では今も各地で争いが続いています。昨年2月に勃発したロシアとウクライナの戦争は、一年半を経過した今も終わりが見えない状況です。遠く離れた日本に暮らしている私達にとっても本当に心痛む日々であり、そのニュースは今も連日世界中をかけめぐり、一日も早い終息を願う祈りに満ちています。

 世界の平和は人類の長年の夢です。国際連合や世界平和会議などの働きは、この夢の実現のためにあります。しかしその夢は、砂漠の蜃気楼のように、近づくにつれて遠ざかっていくかのように思われてなりません。しかし聖書は語っています。終わりの時には、この世界に神の国が出現すると預言されているのです(イザヤ書11章6-9節、ミカ書4章1-4節参照)。ミカ書にあるように、私達は剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌としなければならないとも思います。

 ところで、本当の平和は、人間の努力や政治機構の変革によって造られるものではありません。この世界は、単なる政治体制の変革や人間の教化によって神の国になることはできないのです。神の国は神自らが建設されるものです。「水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる(イザヤ書11章9節)。」とイザヤ書の預言にあるように、キリストの支配が全地に及ぶ時、初めてこの預言は成就し、人類の夢は実現するのです。

 本日のみ言葉から聞いていきましょう。この黙示録を書いたヨハネは、ある時、天から語り掛けられる声によって霊に満たされ、その幻の中で天上の礼拝の様子を見ました。そこでは小羊イエスによって七つの封印された巻物が一つひとつ解かれていきました。続いて七人の天使たちに七つのラッパが与えられ、次々と吹き鳴らされていきました。今までに七人のうち六人の天使がラッパを吹き終わりました。

 14節に「第二の災いが過ぎ去った。見よ、第三の災いが速やかにやってくる。」とありますように、これまでに第一と第二の災いが過ぎ去りました。そして第七の天使がラッパを吹いた時に第三の災いが起こることになっています。ちょうど本日個所です。「(15節)さて、第七の天使がラッパを吹いた。」ここから第三の災いが始まります。神による裁きのために、想像を絶する悲惨な状況が起こって来ることが予想されます。またお読みいただくとわかりますが、第三の災いはこのヨハネの黙示録全体の約半分を費やして書かれています。ところが第七の天使がラッパを吹くと、まずは天地が轟くほどの大賛美が始まったのです。「(15節)さて、第七の天使がラッパを吹いた。すると、天にさまざまな大声があって、こう言った。『この世の国は、我らの主と、そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される。』」

 今まで私たちは天上での礼拝で、神を賛美する言葉を聞いてきました。二十四人の長老達はこのように賛美しました。「(4章11節)主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです。」また、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が大声で叫びました。「(7章10節)救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。」

 15節では、天にさまざまな大声があって「この世の国は、我らの主と、そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される。」と語っています。「天」ではなく「この世の国」です。私達が生きているこの世界が、メシアのものとなったと語っているのです。メシアとはキリストです。これは、神とキリスト・イエスがこの世を限りなく治められるという、神の国到来を告げる賛美です。

 しかしながら、どうでしょうか。今のこの時、世界が神のものになっているとは到底思えません。逆に神はいないのではないかとさえ思ってしまいます。国の指導者は日本の国を戦争をする国にしようとしています。世界各地で権力争いが起き、紛争が絶えません。国を追われた難民は増え続けています。連日悲惨なニュースが報道されています。私達の間にも辛い事や苦しい事悲しい事が起こります。悪の力が支配しているとしか思えない毎日です。

 そのような世界の中で、主なる神、救い主イエスを信じる人達はほんの少数です。そのような状況にある私達に、神はこのように宣言しておられるのです。この言葉は無力感を感じている私達への励ましではないでしょうか。この言葉はこれから起ころうとしていることを先取りしています。

 黙示録が書かれた時代、教会は厳しい迫害の中にありました。ある意味では今も同じだと思いますが。しかし、教会はそれに耐えることができます。神の約束の言葉があるからです。この黙示録には恐ろしい場面がいくつも書かれていますが、大事な所で必ず天の礼拝が描かれています。そこに目を注ぐ時に私達は希望をもって生きることができるのです。なぜなら、私達が捧げているこの地上の教会の礼拝は、天での礼拝につながっているからです。

 さて15節の宣言に応えて二十四人の長老は言います。「(16-17節) 神の御前で、座に着いていた二十四人の長老は、ひれ伏して神を礼拝し、こう言った。『今おられ、かつておられた方、全能者である神、主よ、感謝いたします。大いなる力を振るって統治されたからです。』」 長老達もまた、神の統治を先取りして、その感謝と賛美を捧げているのです。聖書ではこれから起ころうとすることを完了形で書かれることがよくあります。そうすることによって、これから起こることがもう既に起こった事のように確かなことであることを言い表しているのです。また、今までは「(1章8節、4章8節)今おられ、かつておられた、やがて来られる方」と書かれていましたが、ここでは「やがて来られる方」が抜けています。それはもう既にここに来ておられるからです。

 この二十四という数字については以前もお話ししましたが、旧約時代のイスラエル十二部族と新約聖書に出てくる十二使徒に代表される二十四という数字です。すなわち二十四人は、全世界の教会と全世界のキリスト者を言い表していると考えられています。彼らがひれ伏して賛美を捧げているのは、天上における神の民の賛美であり、礼拝そのものです。

 それから、長老達は最後の審判の様子を述べています。「(18節)異邦人たちは怒り狂い、あなたも怒りを現された。死者の裁かれる時が来ました。あなたの僕、預言者、聖なる者、御名を畏れる者には、小さな者にも大きな者にも報いをお与えになり、地を滅ぼす者どもを滅ぼされる時が来ました。」ここでの異邦人たちというのは、神に敵対する人々を表しています。彼らが怒り狂うというのです。怒りというものは、自分が正しいと思うところから湧き上がります。そして怒りは相手に対する憎しみとなり、遂には相手を滅ぼしたいという願望になります。ここでは神に敵対する人々が怒り狂って地(人間世界)を滅ぼそうとしているのです。これに対して神は怒りを表されます。地を滅ぼしてはならないということです。神の怒りは地を滅ぼす者を滅ぼすのです。こうして神の怒りによって地は保護され守られるのです。

 一方、神の僕、預言者、聖なる者、御名を畏れる者には、小さな者にも大きな者にも報いが与えられます。小さな者も大きな者も区別はありません。神は私達が成したことの大小を問いません。私達は自分の行いによって救われたのではないからです。神は私達の信仰の大小も強弱も問いません。私達はただキリストの十字架の贖いを信じることを通してのみ赦され、神のものとされるのです。私達人間はただ神の愛をいただくだけです。ここには神を信じる者への慰めがあり、喜びと希望があります。これらの言葉は信仰の戦いや迫害の中で苦しむクリスチャン達をどんなに力づけてきたことでしょうか。

 それだけではありません。「(19節)そして、天にある神の神殿が開かれて、その神殿の中にある契約の箱が見え、稲妻、さまざまな音、雷、地震が起こり、大粒の雹が降った。」これは天の神殿の
門が開かれたというだけではありません。契約の箱は神殿の中の一番奥の至聖所に安置されていましたので、通常は誰もこれを見ることはできませんでした。ただ年に一度だけ、大祭司が民の罪のために動物を屠り、その血を携えて至聖所に入ることができました。そして契約の箱に血を降り注いで民のための贖いの儀式を執り行ったのです。
契約の箱の中にはモーセが神から頂いた十戒が納められていました。またこの箱はしばしば戦いの場所に持ち出されました。契約の箱があるとイスラエルは戦いに勝ったのです。契約の箱は長い間シロにありましたが、ダビデがエルサレムに運び、ダビデの子ソロモンが神殿を造った時にそこに移されました。しかしバビロン捕囚の時に神殿が破壊され、契約の箱もなくなってしまいました。

 そのように、普通は入ることさえできない所にヨハネは入っていくことができ、さらには契約の箱が見えたというのです。これは驚くべきことです。契約の箱は旧約聖書では神の臨在を表すものとして記されていて、本来ならば人間には窺い伺い知ることができないものです。契約の箱はわかりやすく言えば神の奥義です。今ここでヨハネが見ているのは新しい契約の箱です。新しい契約とはイエス・キリストとの間に結ばれるものです。ですから、この幻は、イエスが十字架に架けられた時の出来事に重なります。イエスが十字架で息を引き取られた時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けました。神殿の幕は神と人間を隔てていました。この垂れ幕が裂けたのは神と人間を隔てていたものがなくなったということです。神と人間を隔てていたのは人間の罪です。その罪がイエスの十字架の死によって取り除かれたということなのです。今や天が開かれて、神と人間との交通は完全に自由になりました。今や天が解放され、天から輝く光が地上に射してきました。

 私達は神を信じていると言いながら、いつの間にか神の力を見くびり、ここまでは神は見ていないだろう、神の力は及ばないだろうと思ったことはないでしょうか。神を人間のように考えていないでしょうか。それではどこに神への信仰があるでしょうか。確かに今の時代は、いろいろ邪悪な支配原理が我が物顔に横行しています。決して神の支配下にあるなどとは言えない状況かもしれません。しかし天からの声は「(15節)この世の国は、我らの主と、そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される。」と明確に告げています。著者ヨハネは、肉に縛られている人間には見ることができず、映し出せない神の国の姿を、澄み切った霊の目で見えるようにされているのです。キリストが、そしてキリストを与えてくださった神がやがてこの世を統治されるのです。この世は主のものだからです。

 現状を見る限り、とうていそんなことは考えられないと思うかもしれません。しかしここに隠されたメッセージがあります。それは、この方は十字架に架けられて殺され、人の目には敗北と見えるところから復活されて、人間が受けるべき死を打ち破ってくださったお方だということです。言い換えると、ここには私達人間の罪と死に対する勝利が確立されているのです。だから確立された神の国は、今後も継続され、持続され、保護されるのだということです。17節の長老達の賛美は、そのキリストにある勝利を宣言しているのです。

 私達人間はこの世では苦難があります。しかしイエスは既に勝利されたのです。人間を救うキリストの出来事は既に起こっているのです。救いは約束されています。私達はキリストにある新しい契約の中にいます。信じる者にはイエスがいつも伴なっていてくださいます。いまだこの世にいる私達ですが、神の支配を望み見ながら歩んでまいりたいと思います。

(牧師 常廣澄子)