霊の働き

2023年8月27日(主日)
主日礼拝

コリントの信徒への手紙 一 12章1~11節
牧師 常廣澄子

 前回は、主の晩餐の持ち方で混乱していたコリント教会の人達に対して、パウロはその基本的な心構えを説いて正しく晩餐に与るようにと語りました。引き続いて今朝お読みした12章から14章にかけては、教会の中の秩序の問題、特に御霊の働きについてその根拠と意味を明らかにしようとしています。

 パウロは、コリント教会の信徒の中に争いごとがあるのをクロエの家の人達から知らされていました(1章11節参照)。 7章を読むと、コリント教会からパウロのところに、教会で起きているいろいろな問題について質問する手紙が送られていたこともわかります。パウロの耳にはコリント教会についての情報が入っていたのです。そういうことを知った上で、パウロにはどうしてもコリント教会の人達に理解してもらいたい事がありました。それは霊の賜物についてです。

 パウロの心を最も痛めたのはコリント教会の中に争いがあるということでした。それぞれの人が持つ賜物の優劣をめぐって競争することもあったようです。また、霊的な現象が起こると、その表面的な出来事の大小で人を評価したり、目に見える賜物として異言の賜物が激しく求められるようにもなっていたようです。

 パウロも異言を語りました。それは神からいただく賜物として、神との密接な交わりの証としての異言でした。そういう意味でパウロは異言の価値を認めていましたが、それがコリント教会のように、自分の価値を高めるために利用され、異言を語ることが最高の霊の賜物だと賞賛されるためであったり、異言が語れることを誇りにするようになったとしたら問題です。そういうことは神の御心から遠く離れている状態ですから、教会の徳を高めることにはなりません。パウロは、霊の賜物についての意味と根拠を明らかにして、その教会生活における位置付けをしっかり語っています。

 今朝の聖書個所は、新共同訳聖書の段落では、「霊的な賜物」という題がついていて、霊的な賜物について詳細に述べられています。コリント教会の人達は霊に満たされて、力ある業をなし、預言を語り、異言を語り、またそれを解釈したりしていました。表面上、その集会はとても豊かに祝福されていたのです。ここに書かれているいろいろな働きはすべて霊の力によって生まれるものです。

「(8-10節)ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。」

 ある人は自分に与えられた霊の力で、知恵の言葉や知識の言葉が次々に与えられることに驚き、感動しました。ある人は自分が発揮する力で、病気を癒したり、奇跡を行ったりすることができることに興奮し、酔いしれました。またその逆で、ある人は自分が他の人のように霊的な働きができないことを嘆きました。コリント教会の中には得意満面な人がいるかと思うと、悲観する人がいました。霊の力に満たされて酔いしれる人がいるかと思えば、何もできないと嘆いたり焦ったりする人がいたのです。

 いったい、神の霊に満たされて生きるということはどういうことなのでしょうか。主の霊を受ける、御霊を受けるというのは、どういうことをいうのでしょうか。今、私達には神を信じる心が与えられ、その信仰によって生かされていますが、自分が信じている神の臨在に触れてみたい、生ける主の現実に触れてみたい、と願うのは信仰者ならば誰であっても共通の願いではないでしょうか。主は生きておられます。その力強く働いておられるお方をもっと近く体験してみたい、と願うのは当然のことです。では、私達がその生ける主の御霊によって生かされているという証拠はどこにあるのでしょうか。

「(3節)ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」ここには、私達が知っておくべき大切なことが書かれています。イエス・キリストを自分の主と告白するに至らせるのは、自分の力ではなく、その人の内に働く聖霊の力であるということです。イエスを自分の主と呼び得るということ、それは私達が御霊を受けていることの真の証拠です。私達は自分で決心して神を信じ、自力で信仰に入ったと思いがちですが、それは大きな誤りです。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」とエフェソの信徒への手紙2章8節にあるとおりです。

 使徒言行録18章には、パウロが始めてコリントに行って伝道した時の様子が書かれていますが、そこには大変興味深い出来事が書かれています。「(使徒言行録18章5-8節)シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証しした。しかし、彼らが反抗し、口汚くののしったので、パウロは服の塵を振り払って言った。『あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く。』パウロはそこを去り、神をあがめるティティオ・ユストという人の家に移った。彼の家は会堂の隣にあった。会堂長のクリスポは、一家をあげて主を信じるようになった。また、コリントの多くの人々も、パウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けた。」

 パウロはコリントにやってくると、イエスはメシア(救い主)であるということをユダヤ人に熱心に語ったのですが、受け入れられず、むしろののしられるばかりでした。そこでパウロは彼らに背を向けて、ユダヤ人会堂の隣にあるティティオ・ユストという人の家で異邦人に向かって伝道を始めたのです。するとその時、ユダヤ人会堂の長であるクリスポが家族そろって主を信じるようになったというのです。このコリントの信徒への手紙が書かれた当時も、ティティオ・ユストの家で集会が持たれていたかどうかはわかりませんが、ユダヤ人会堂の隣の家で集会をする人達の様子を思うと、3節にあるパウロの言葉がよくわかると思います。ユダヤ人の会堂に集まる人達は、イエスが主であるとはとんでもないことであり、「イエスは神から見捨てられよ」(口語訳聖書では「イエスはのろわれよ」)と言わずにおれませんでした。

 しかしその隣の家では、イエスを賛美し感謝の祈りが捧げられているのです。そこには昨日まで隣の会堂に仕えていたクリスポと彼の家族がいたかもしれません。彼らは以前にはイエスを呪っていたのかもしれませんが、今は主を賛美しているのです。イエスを主と仰いで、信仰を言い表しているのです。ここにすでに奇跡が起きています。御霊の働きなくして、このことを説明することはできません。

 私達が福音を知って、イエスへの信仰を告白したということは、誰もが了解する事かもしれませんが、自分はこういう理由でイエスを信じたのだと説明して、人々を納得させることができるでしょうか。言葉や理論で信仰が説明出来たら、福音の伝道はもう少し進展していったかもしれません。
しかし「(コリントの信徒への手紙一1章21節)世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」つまり、信仰は御霊の働きによって、御霊の賜物として神から受けたのだとしか言えないのです。御霊が働く力は今も昔も変わりません。御霊の力は、私達が主を信じた後に付け加えて与えられるように思う人が案外多いのですが、それは大きな誤解です。信仰は御霊の賜物であり、イエスを信じた時から御霊は常に私達に伴っておられるのです。

 むしろ大切なことは、今ここで、イエスを主とする信仰を与えられた者にふさわしく生きることです。御霊の賜物として、神への信仰が与えられたのであるならば、今は、自分の人生の主は私ではなく主なる神です。私達はむしろ主の僕であることを知って生きていくのです。そこから生まれた人生の目的は、ひたすら主に仕えることではないでしょうか。

 さらにパウロは、私達がいろいろな御霊の賜物によって生きていることを示しています。それが
4節以下に語られています。「(4-6節)賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。」ここには、同じ霊、同じ主、同じ神、というように、三位一体の神を表わすかのような構成で、賜物の多様性とその美しい統一について語っています。大切なのは、賜物の源泉である御霊の働きは同じ神から出ているということです。

 コリント教会の中にはいろいろな賜物があり、その相違がしばしば優劣を争ったり、人間的な誇りにつながっていったことから、パウロはここで、それらはすべて同じ神から出た自由な恵みの賜物であることを覚えなさいと語っているのです。私達はいろいろな点で他人を裁き、ねたみ、つぶやきます。富をうらやみ、才能をうらやみ、地位や名声をうらやみます。しかし、神は一人ひとりに多様な賜物を与えられているのだということがわかれば、そのような羨望やつぶやきがいかに見当違いなことであるかが分かると思います。神は御心に添って、私達それぞれにふさわしい御霊の賜物を与えておられるのです。そして「(7節)一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。」私達の働きは決して同じではありません。それらはあくまで教会という「全体の益」となるためです。しかしそれは一人ひとりの固有の賜物や努めを否定するのではなく、固有のあり方を認めた上で、全体の益との関りにおいて意味が与えられているのです。

「(11節)これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。」パウロははっきりと、霊の賜物(カリスマ)をもった人が特別の人であって、奇蹟を行ったりする人が特別の人であるという考えを否定しています。御霊の賜物は一人ひとりに与えられているのです。神にひいきされて特別に恵まれている人はいないのです。

 2節でパウロは、コリント教会の人達がいかにものの言えない空しい偶像のもとで暮らしていたか、真の言葉に無縁な日々であったかを語っています。そのような偶像の神は人間が生きるための言葉を与えることはできませんでした。しかし真の神は人間に呼びかけています。人間がそれに応答して、神への信仰を持った時、私達は新しく造られていくのです。そして、御言葉によって人間に語られる神は、その霊によって信じる者に多くの賜物を与えてくださるのです。

 イエスを主であると告白すること、一つの体となるようにバプテスマを受けること、この二つは私達に与えられている豊かな霊の賜物です。大切なことは、この賜物を深い感謝と恐れをもって正しく受けとめることです。この恵みを覚える時、自分がどんなに豊かな賜物を与えられているかが分かるようになります。どんな人でもキリストの体の一部分となっているのですから、そこで精一杯生きていくなら自分がどんなに大きな恵みの賜物をいただいているかわかってくるのです。その一つは、同じ体である人々の悩みを自分の悩みとすることです。私達をその体の一部分としてくださったイエスが、私達の悩みを御自分のものとし、それを助けて救ってくださったのですから、私達がそうするのは当然です。何も出来なくても祈ることによって、その人らしくささやかな愛の業をすることができます。一人ひとりに賜った賜物はその人のためだけではなく、他の人のため、ひいては全体の益のためなのです。教会が教会であり続ける時、これが教会の原理原則です。今も主の霊が私達の上に豊かに働いていることを信じ、感謝して教会の業に励んでまいりたいと願っております。

(牧師 常廣澄子)