天から響く歌

2024年3月3日(主日)
主日礼拝『 主の晩餐 』

ヨハネの黙示録 14章1~5節
牧師 常廣澄子

 13章では、天から地上に投げ落とされた竜が、凶暴な二匹の獣の姿になって荒れ狂う様を見てきました。この14章に入ると、ヨハネは一転して天上での新しく光り輝く礼拝の幻を見ています。その中央にいて、崇高な勝利の座についておられるのは、神の小羊、イエス・キリストです。そしてそれを取り囲んでいるたくさんの聖徒たちが讃美をもって礼拝しているのです。

「(1節)また、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っており、小羊と共に十四万四千人の者たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されていた。」小羊はシオンの山に立っています。シオンというのは、もともとはエルサレム郊外の丘の名前でしたが、ここにダビデの町が造られ、後に神殿が建てられましたので神の都と言われるようになり、エルサレムやイスラエル全体を表す言葉にもなっています。ここで「シオンの山に立つ」というのは、小羊がいと高きところ、主権者の座、神の支配する勝利の座に立っておられるということです。

 その小羊は、イザヤ書53章に表されている、あのほふられた小羊イエスのお姿です。神の御子イエスは、人々に軽蔑され、見捨てられ、屠り場に引かれる小羊のように口を開かず、捕らえられ、裁きを受けて、殺されました。人々の罪や咎をすべて背負って、人々の代わりに捧げられた犠牲の小羊となられたのです。しかし、十字架で死なれたイエスは死に勝利されて三日目に復活されました。ほふられた小羊イエスは、今や天上で勝利の座についておられるのです。

「小羊と共に十四万四千人の者たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されていた。」小羊と共にいる、この十四万四千人の人たちはどういう人たちでしょうか。この人たちのことは、7章にも出てきましたが、彼らは神の僕たちと呼ばれ、神の刻印を押されている人たちです。この人たちは「贖われた者」であると、3節にも4節にも書かれています。

 この「贖われた者」というのは、代価を払って本来あるべきところに買い戻されたという意味です。例えていうなら、奴隷として売られた者が、代価を払ってその束縛から解放され、自由にされるということです。つまり、罪と死と滅びの奴隷になっていた私たちが、神の小羊イエスの十字架の血潮というその尊い代価によって、神のものとして買い戻されたという意味です。コロサイの信徒への手紙1章21-22節には「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。」とあるとおりです。

 以前にもお話ししましたが、十四万四千人という人たちについては、この数字を文字通りに考える必要はありません。これは十二の十二倍の千倍です。12という数字は、聖書が大事にしている数字で、イスラエルの12部族を表し、全イスラエルを意味しています。全国民を代表する12という数字を12倍することは、完全数の上にさらに完全を加えることになります。つまり神を信じるすべての人を指しています。信じる者はただの一人もかけることはないのです。

 その人たちの明確な印は、その額に小羊の名と小羊の父の名とが書かれていることです。7章3-4節に「こう言った。我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまは、大地も海も木も損なってはならない。わたしは、刻印を押された人々の数を聞いた。それは十四万四千人で、イスラエルの子らの全部族の中から、刻印を押されていた。」と記されていました。印が押されるということは、印を押した者の所有であり、印を押した者に保証されているという約束です。そして、その印は消されたり、失われたりすることがないのです。私たちもまた、神の刻印を押されている者、キリストの贖いによって神のものとされた者です。それは私たちが清い人間、正しい人間であったからではありません。聖書には「正しい者はいない、一人もいない。」と書いてあります。誰一人として自分の行いによって正しい者とされることはないのです。私たちはただイエスの十字架の血によって贖われた者なのです。

 そのような贖われた者たちには、真の神を信じる者のしるしとして、ここに書かれているように、小羊の名が刻印されたり、小羊の血で清められた白い衣を着せられると言われたり、小羊の命の書にその名が書き記されていると書かれていたりします。

 しかし、これと反対に、13章16-17節には、獣の名の印が押されることが書かれていました。獣の像を拝まない者には獣の名の印がなく、ものを買うことも売ることもできないようにされてしまったのです。ヨハネの時代も今でも、地上のすべての人には獣の刻印が押されているのかもしれません。ヨハネの時代も今も、竜とその手下である獣が地上を支配しているからです。

 12章で見てきましたように、巨大な竜、悪魔とかサタンと呼ばれるものは、天上の戦いで敗北し、居場所を失って地上に投げ落とされてしまいました。しかし地上に投げ落とされた竜はなおも生きていて、二匹の獣を使って荒らしまわっているのです。今、世界の各地で戦争が起こり、止むことがありません。戦争は人間を狂気にします。狂気が戦争を引き起こしているといっても良いかもしれません。人間を狂わせ、駆り立て、相手に負けないために、果てしない軍備拡張競争が起こり、多くの尊い命が殺されています。このように人間を駆り立てているものは何でしょうか。サタン以外の何ものでもありません。いま世界で起きているのは絶望的な人間の有様です。人間同士が互いに傷つけあっています。それは人間が神から離れ、神の言葉を聞こうとしないからです。ここでその中止と悔いあらためを促すことができるのは、御言葉を通して神の御心を説く教会です。

 神を信じる者は、肉眼で見える世界だけでなく、目には見えない世界があることを知っています。信仰を持って生きる者は、地上において現実の生活をしながら、天上でのもう一つの神の世界をも垣間見させていただいているのです。ですから神の霊によって映し出される幻を通して、神の御心を証しすることができるのです。私たちの住む世界には限界があり、時が来れば滅びます。しかし信仰を持って生きる者は、朽ちない永遠のものを見ることができるのです。それは神の言葉である聖書を通して私たちに語られ、示されているものです。今、私たちは黙示録が告げている天上の世界を見ています。地上の世界を超えて、その先にある天上の世界を見させていただいているのです。

 そして、天上におけるこれらの幻が語っていることは、信仰者として生きることの確かさです。私たち一人ひとりに信仰の確信があるわけでもなく、私たちが神を信じる者として聖い生活ができるから救われるというのでもありません。実際、弱くて汚れに満ちた私たちの中には何一つ救いの確かさはないのです。しかしこの小羊イエスというお方が、何ものによっても崩すことができない救いの確かさを保証していてくださるのです。それは、私たちのために、私たちに代わって、私たちの罪の全責任、私たちが支払うべき代価を一身に背負って決着をつけてくださったということによって既に明らかです。ですからこのイエス・キリストの十字架の死と復活を信じて、父と子と聖霊の名によってバプテスマを受けること、これこそが今を生きる私たちの刻印だとも言えるのではないでしょうか。

 さて、小羊と共にいる十四万四千人が何をしているのかというと、彼らは賛美しているのです。「(2節)わたしは、大水のとどろくような音、また激しい雷のような音が天から響くのを聞いた。わたしが聞いたその音は、琴を弾く者たちが竪琴を弾いているようであった。」とあります。「大水のとどろくような音」とか、「激しい雷のような音」というのは、一種の地鳴りや地底からの響きのようで、低音部の響きとでも言えるかもしれません。それと同時に妙なる琴の音が聞こえたのです。この全く違う種類の音楽が今、新しい歌となって、中央に立たれる小羊の前で、また四つの生き物と長老たちの前で、十四万四千人の聖徒たちによってささげられているのです。5章8節には、この四つの生き物と二十四人の長老たちはおのおの竪琴を持っていたことが書かれていました。彼らは天において、壮大なオーケストラのように賛美をしているのです。

「(3節)彼らは、玉座の前、また四つの生き物と長老たちの前で、新しい歌のたぐいをうたった。」ここでは「新しい歌のたぐいを歌った」と言われています。それはこれまで誰も歌ったことがない歌です。神の小羊によって開かれた新しい世界を知った者が歌う、新しい歌なのです。一体どのような賛美でしょうか。これはもちろん信仰と切り離すことができません。これは賛美であると同時に、信仰告白であり、また祈りです。

 聖書を読んでいくと、あちこちに賛美があります。人間が歌う賛美もあれば、イエス誕生の夜は真夜中に天の大群、つまり天使たちの大讃美「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」がありました。

 さて、彼らの壮大な賛美と共に、彼らがどのような人たちであったかが、4節に書かれています。「(4節)彼らは、女に触れて身を汚したことのない者である。彼らは童貞だからである。」これは誤解されやすい言葉です。この言葉を文字通り受け取るならば、性的に極めて限られた人たちだけになってしまいます。しかし、これは象徴的な表現なのです。偶像礼拝は性的な不品行や不倫に例えられていました。聖書では神を信じる信徒たちをキリストの花嫁と言っていますが、ここの御言葉も同じようにただ神のみを礼拝し、その他のいかなるものをも神としないという、霊的な意味での純潔を保っている人たちのことを言っています。

 続いて「(4節)この者たちは、小羊の行くところへは、どこへでも従って行く。」とあります。イエスはご自身を良い羊飼いだと言われ、羊との関係を語っておられます。ヨハネにいる福音書10章2-4節には「門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。」とあります。私たちはキリストに贖われた者としてキリストについて行く群れです。この御言葉のようにどこにでも従って行くのです。

 しかし、この小羊イエスは屠られた小羊であり、十字架への道を歩まれました。私たちはイエスの歩まれた後について行くのですから、私たちもまた苦難の道を歩むことになるのかもしれません。獣を拝んで、この世に流されて生きていた方がずっと楽かもしれません。しかしそれは滅びに向かう道です。イエスは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(マタイによる福音書16章24-26節)と言われました。どんな時も主が伴っていてくださるという約束を信じ、私たちはどこまでも主なる神であるイエスの後についていきたいと思います。

 さらに続けて「(4-5節)この者たちは、神と小羊に献げられる初穂として、人々の中から贖われた者たちで、その口には偽りがなく、とがめられるところのない者たちである。」とあります。ここに「初穂」という言葉が出てきます。旧約聖書の時代は、収穫物の初穂を神に捧げるように定められていました。収穫物はすべて神のものであり、その最初の収穫物を神にお返しするのです。同じように、これらの十四万四千人という神の民は、贖われた者の初穂として神と小羊に捧げられたというのです。ここで大事なのは、初穂というのはその後に続く収穫物が予想されるということです。私たちが神を信じて生きているのは私たち自身のためだけではなく、後に続くすべての人々のためでもあることを忘れてはならないと思います。

 私たちが神を信じ、信仰を持って生きるということは、絶えず、生か死か、救いか滅びかの選択に関わっていることでもあります。信仰者の日々は悪戦苦闘の連続だと言っても良いでしょう。しかし、イエス・キリストを見上げる時、私たちはこのお方が命をかけて勝ち取ってくださった罪と死に対する勝利、すなわち復活がどんなに大きな喜ばしい出来事であるかがわかります。今も信じる者と共に生きておられるイエスによってすべての重荷や思い煩いを委ねて生きていけるからです。天上で歌われている賛美に合わせて、私たちもまた小羊イエスを賛美し、神に向かって新しい歌を歌いつつ地上で与えられている日々を歩んでいきたいと願っております

(牧師 常廣澄子)