詩編

嘆きを聞かれる神

この6編は、キリスト教の伝統の中では七つある「悔い改めの詩編」の中の一つです。しかしながら読んでいただくとお分かりのように、ここには何かを悔い改めている言葉がありません。直接的に罪を告白しているようなところもありません。ただ2節や3節を読んでいきますと、「怒ってわたしを責めないでほしい、憤って懲らしめないでほしい。」と願う間接的な祈りがありますから、ここに罪の告白があると読み取られているのです。どうもこの詩人がなしたことを主が怒っておられ、その憤りによって自分は懲らしめられている、と告白しているようです。ですからここには詩人の深い罪意識があり、この詩には悔い改めや懴悔の気持ちが込められていると考えられているのです。

主を待ち望め

今朝はルターが深く愛したと言われている詩編130編から神の御心を聞いていきたいと思います。この詩編は8節までの比較的短いものですが、豊かな感情表現が盛り込まれていて、人間の罪と神の恵みとの間の深い関係が示されている御言葉です。有名な讃美歌258番(日本基督教団出版局発行讃美歌)は、ルターが自分の気持ちをこの詩編の御言葉に託して作られたと言われています。この讃美歌1節の歌詞は、「貴きみかみよ、悩みの淵より 呼ばわるわが身を 顧みたまえや。み赦し受けずば きびしき審きに たれかは堪うべき。」というように、130編の御言葉がそのまま基になっています。

主に信頼する者

幸いなのはいったいどういう人だと言っているのでしょうか。それは「背きを赦された人」「罪を覆っていただいた人」「主に咎を数えられない人」「心に欺きのない人」です。つまり神から罪を赦されている人は幸いだと語っているのです。注意していただきたいのは、罪のない人が幸いだとは言っていないのです。罪がないのではありません。誰にでも罪はあるのです。罪はあるけれども赦されている。主に咎を数えられないでいる、罪を数えられないでいる人が幸いだということです。

神の慈しみに生きる者

今朝の御言葉は詩編16編からです。この詩には、異教の風習が強要される異国の支配下にあるにも関わらず、真の神への確固とした信仰を持って歩む詩人の姿が美しい言葉で歌われています。始めに「ミクタム・ダビデの詩」とあります。ダビデを冠する詩編は数多いのですが、ある聖書学者によれば、この詩の内容から考えて、ダビデがサウル王に疎まれ、追われて逃げ惑っている時に作った歌の一つではないだろうかとも言われています。

生涯の日を数える

詩編は150の詩からなっていて、神への感謝や賛美、嘆願や祈りなど、その内容はいろいろです。その時に応じてふさわしい詩編が読まれますが、今朝の詩編90編は、キリスト教の葬儀の時によく読まれる箇所ではないでしょうか。私たち人間の命について、人生について、永遠について、大変美しく哲学的に書かれた詩だと思います。本日の礼拝で歌う新生讃美歌572番「神わが助けぞ」(教団讃美歌88番「過ぎにし昔も来たる代々も」)は、イギリス最高の讃美歌作者アイザック・ワッツがこの詩編90編をもとにして作ったものです。

主の見守り

この詩編121編は詩編の中でも、最も多くの人々に親しまれている詩ではないかと思います。私たちが礼拝でよく歌う新生讃美歌435番「山辺に向かいてわれ」は、この詩編121編をもとに別所梅之助が作詞したものです。詩編の歌の多くが神への信頼と感謝を表していますが、中でもこの詩編121編はシンプルですが、それだけに力強く神の配慮や守りへの感謝と信頼を歌っています。

低きに下る神

この詩編は、イスラエルでは祭り、特に過越しの祭りの時に歌われていました。イエスが最後の晩餐の席で、弟子たちと過越しの食事をなさった時も、その始めにこの詩編113編が歌われたであろうと考えられています。113〜114編は過越しの食事の前に、115〜118編は食事の後で歌われたそうですので、マルコによる福音書14章26節に「一同は賛美の歌を歌ってから、オリーブ山へ出かけた。」とあるのは、おそらく115〜118編であろうと言われています。

全地に満ちる力

2021年が明け、私たちは新しい年を歩き始めました。今年は昨年から続く新型コロナウイルス感染拡大という状況にありますので、どこか新鮮さと喜びが薄められてしまったような気もいたします。しかし、主の年(アンノ・ドミニ)は確実に新しい年を刻んでいることを感謝し、この世界は確かに神が創られ、神が治めておられることを御言葉から聞いていきたいと思います。

魂の沈黙

詩編は神への賛美であり、神殿の礼拝で歌われた讃美歌でもありました。もちろん150編もある詩編の中には、賛美だけでなく感謝や祈り、嘆願、そして悔い改めや懴悔などがあります。多くのキリスト者がこれらの詩編の御言葉から慰めを受けたり、励まされたりしてきました。今朝お読みした詩編131編の表題は1節に「都に上る歌。ダビデの詩。」となっていて、詩人でもあるダビデ王の名がつけられています。「都に上る歌」というのは、120編から134編のすべて詩編の表題になっています。これは過越祭などでエルサレム神殿に巡礼する時、つまり都に上る時にみんなで歌ったものだと考えられています。けれども実際は、そういう巡礼の時だけでなく、いつでもどこでも歌われた信仰の歌だといってもよいのではないかと思います。詩編131編は3節しかない大変短い詩です。

苦難の日に

聖書の民であるユダヤ人は大変信仰深い民族です。神を畏れ、神の律法を大切にし、神に対する礼拝を怠りませんでした。当時神を礼拝する時はいけにえを捧げていました。8節に書かれている「焼き尽くす献げもの」というのは、最も大切ないけにえで、罪が赦され、神との交わりが回復されるために捧げられたもので、神殿ではそのいけにえを焼く煙が昼も夜も絶えなかったと言われています。