正義と公義の神様

2023年10月22日(主日)
主日礼拝『 特別礼拝 』

エレミヤ書 21章8~10節
林 大仁 神学生

 涙の預言者、エレミヤは、ユダ王国のヨシヤ王13年の時に預言者としての働きを始め、ヨアハズ王、ヨヤキム王、ヨヤキン王、それから最後の王であるゼデキヤ王に至るまでの40余年を、神を離れ、偶像崇拝の罪を犯し続けるユダ民族へ下される神の正義を預言し、バビロンに降伏することを語り続けた。21章は、いよいよ差し迫ったバビロン王ネブカドネツァルのエルサレム侵攻を前にゼデキヤ王が主の御心を伺おうとエレミヤのところに送った祭司らを前に、エレミヤが改めて神の厳しい裁きを告げる場面である。
 
 神はエレミヤを通して言われる。エルサレムに止まる者は、戦いと飢饉と疫病によって死ぬと。死の道である。また、主は言われる。エルサレムを出て包囲しているカルデア人に降伏する者は生き残り、命だけは助かると。命の道である。慣れ親しんだ生まれ故郷、そこに日常の生活があり、それまで築いてきた財産があるというのに、それを捨て、そこを離れ、遠くにある異邦の地、バビロンに行きなさいと、どう考えても死の道に見えるのにそれがあなた方の生きる道、命の道だと神は言うのである。そこまで悪くはならないだろう、戦いももしかしたら回避できるかもしれない、大丈夫と言う預言者たちもいるではないか、この生活を諦めるのか、財産はどうするのだと言いながら、その地に安住したがるその思いや考えが、死の道だと神は言うのである。神の言う命の道、死の道は、今を生きる私たちにも同じように告げられる。神が命の道というのにわれわれは死の道に突っ走り、神が死の道というのに否、生きる道といい、その道に行こうとする。イスラエルの民は神に聞いた。エレミヤ16章10節以下である。「なぜ主はこのような大いなる災いをもたらす、と言って我々を脅かされるのか。我々は、どのような悪、どのような罪を我々の神、主に対して犯したのか」と。主は答える。「お前たちの先祖がわたしを捨てたからだ。彼らは他の神々に従って歩み、それに仕え、ひれ伏し、わたしを捨て、わたしの律法を守らなかった。お前たちは、先祖よりも、更に重い悪を行った。おのおのそのかたくなで悪い心に従って歩み、わたしに聞き従わなかった」。かたくなでない人がいるだろうか。自分は悪い心に従って歩んだことがないと自負出来るだろうか。

 BC11世紀頃サウル王が全イスラエルの王になってからその王国は、BC586年南ユダ王国がバビロンによって滅ぼされるまで約500年間続いた。旧約聖書全39冊のうち、24冊がこの時代のことを書き記している。この時代は、神の贖いの歴史において大変重要な意味を持つのである。BC722年北イスラエル王国がアッシリアによって滅ぼされてからも南ユダ王国は暫く続いた。ユダ王国には20名の王がいたが、先祖の神を求め、その戒めに従って歩み、父祖ダビデの道を歩み、主の目にかなう正しいことを行ったと神に評されたのは、3代目のアサ王、4代目のヨシャファト王、13代目のヒゼキヤ王、16代目のヨシヤ王の4人しかいない。その中の1人、ゼデキヤ王の父でもあるヨシヤ王の話を列王記22章から見ていこう。

 列王記22章2節によると、ヨシヤ王は主の目にかなう正しいことを行い、父祖ダビデの道をそのまま歩み、右にも左にもそれなかったと言う。また23章2節以下を見ると、ユダのすべての人々、エルサレムのすべての住民、祭司と預言者、下の者から上の者まで、すべての民と共に主の神殿に上り、主の神殿で見つかった契約の書のすべての言葉を読み聞かせ、王が柱の傍らに立って主の御前で契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、この書に記されているこの契約の言葉を実行することを誓い、民も皆、この契約に加わったという。しかし、ヨシヤの後を継いでユダの17代王となったヨシヤの四男ヨアハズ、18代王となったヨシヤの次男ヨヤキム、その子19代王ヨヤキン、最後の20代王、ヨシヤの三男ゼデキヤは、揃って主の目に悪とされることをことごとく行った。ヨシヤ王が列王記23章のいわゆる申命記改革を行ったのが在位18年目であることを考えると、その改革に参加して心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守ると誓ったイスラエルの民とヨシヤの息子たちが王になった頃の民とは、ほぼ同世代の人たちである。そこにわれわれは霊的指導者の重い責任を痛感させられる。指導者1人の信仰でこれほどまでにというくらい、民が変わるのである。われわれバプテストは、会衆主義、万人祭司を守る。われわれ一人一人が霊的指導者として立たされていることを考えると、われわれの信仰や祈りでわれわれについている民たちの主なる神に対する信仰の姿勢、思いや行動が変えられることを考えると、その責任はとても重い。

 バビロンの脅威がいよいよ現実に迫った時に、ゼデキヤ王は、エレミヤから主の御心を聞こうとした。が、それは主なる神への信仰によるものとはとても言えない。エレミヤ21章2節を見ると、「…主はこれまでのように驚くべき御業を、わたしたちにもしてくださるかもしれません」と書いてある。ここにゼデキヤの気持ちが見え隠れする。同箇所の他の聖書訳を見ると、「わたしたちにもしてくださるかもしれません」は、「もしかしたら~王が軍隊を撤退させるようにしてくださるかもしれない」と訳することが出来、2節冒頭の「どうか、わたしたちのために主に伺ってください」も、他の訳を参考にすると、そこまで丁寧なお願いとは言えず、ましてや祈りとは程遠いものである。似たような国難を迎えたヒゼキヤ王が、アッシリア王センナケリブの侵攻を前に、列王記19章15節以下で「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、主よ。あなただけが地上のすべての王国の神であり、あなたこそ天と地をお造りになった方です。主よ、耳を傾けて聞いてください。主よ、目を開いてご覧ください。生ける神をののしるために人を遣わしてきたセンナケリブの言葉を聞いてください」と切実に祈ったことと好対照である。

 主はバビロン捕囚後、主の神殿の前でエレミヤと良いいちじくと悪いいちじくの話をされる。エレミヤ24章である。一つの籠には非常に良いいちじくがあり、もう一つの籠には、非常に悪くて食べられないいちじくが入っていた。神は、「このところからカルデア人の国へ送ったユダの捕囚の民を、わたしはこの良いいちじくのように見なして、恵みを与えよう。彼らに目を留めて恵みを与え、この地に連れ戻す」と言われ、7節で「わたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは真心をもってわたしのもとへ帰ってくる」と言われる。とても悪く食べられやしないいちじくなのに、神を裏切りその怒りを買ってバビロンに連れていかれたのに、わずか三十数年前に、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守ると誓っておいて偶像崇拝に陥ったのに、神は、良いいちじくのように見なして下さると言われる。それから恵みを与えると言われる。それは神ご自身が、新共同訳聖書で「恵みの業」と訳される、ツェダカー、公義だからである。本来受ける資格のない者に注がれる神の憐れみ、ご自身が唯一の主なる神であることを知る心、知恵を与えて下さる神の業、何一つその要素のない罪人のわれわれに留まる神の恵み、これが神の公義、ツェダカーなのである。そして、その不変の神の属性であるツェダカーは、エレミヤ23章5節において、正しい若枝として起こされ、正義と公義を行う王となり、治め、栄え、ユダを救い、イスラエルを安らかに住まわせる。それからそのキリストなる王は、その名を「主はわれわれの公義」と呼ばれるようになる。これが神の正義、ミシュパートである。公義の神様は、本来そのような資格など全くないわれわれに、公義の業として、われわれにご自身のことが信じられる恵みを与え、そして救い、恵みを施す正義を働かれるのである。われわれは、その主の恵みの中で安らかに住み、神の公義を実践する身となり、この地上において神の正義を行っていくのである。

(林 大仁 神学生)