霊と知恵に満ちた人

2024年4月28日(主日)
主日礼拝『 大規模修繕感謝礼拝 』

使徒言行録 6章1~15節
牧師 常廣澄子

 本日は、昨年秋から始められた教会の補修工事が無事に完了したことを感謝しての礼拝です。今、約半年間にわたる一連の工事の経過をお話しいただきましたが、教会のいろいろな業はすべて、神の御手の中にあることを思わされています。私たちの教会堂が立っている土地は高い擁壁で支えられていますが、この擁壁は建設されてから長い年月が経って劣化が目立ってきたので、ずっと心配していろいろと対応を話し合ってきました。しかしこのことを相談できるところがなかなか見つからなかったのです。ところが昨年の初め頃、不思議な導きで擁壁専門の会社との出会いがあり、私たちが当初考えていた以上にしっかりときれいに補修・補強工事を行うことができました。擁壁だけでなく教育館跡地の整地も含め、見違えるようにきれいになりました。これは私たちの祈りを聞かれた主が助け導いてくださったのだと心から感謝しています。続いてテラス側の柱の補強がなされ、屋根や外壁の補修と塗装が終わり、このようにきれいな教会堂になりました。教会堂の内部はそのままですが、私たち一人ひとりがその内部をつくっていることをしっかり覚えて、主の愛と御霊に満ちた教会でありたいと願っております。教会は主なる神のおからだであります。

 使徒言行録の始めのところに、キリスト教の教会ができ始めた頃の様子が書かれています。律法学者やユダヤ当局側からは、イエスを信じる者たちに対する激しい迫害がありましたが、そういう中でも、初代教会はめざましく進展していきました。5章では残念なことに教会内部でアナニア夫妻の事件がありましたが、使徒たちや信者たちはそれをも克服していきました。今朝お読みした6章では、その次に起こった問題が書かれています。その問題の発端は教会内に生じたトラブルでした。それは教会にはあってほしくないことです。しかし教会といえども、弱く不完全な人間の集まりですから、実際トラブルが存在したのです。人間と人間の関係というのはサタンが最も狙いやすい所だからかもしれません。しかし、教会はそういう場面を通って、次のステップへとより強く賢く成長していくことができるのだと思います。

 事件が起こった理由の一つは「(1節)そのころ、弟子の数が増えてきて」というように、信者の数が増加してきたことにありました。人数が少ない時は、何でも以心伝心で分かり合い通じ合っていたことでも、人数が増えるとそういうわけにはいきません。教会が大きくなるのは感謝なことですが、信者が増えてくれば意思疎通の欠如からくる不満や苦情が出て来ても不思議ではありません。
おまけに当時の教会の信者の中には、同じユダヤ人でも「ギリシア語を話すユダヤ人」と「ヘブライ語を話すユダヤ人」がいたのです。「ギリシア語を話すユダヤ人」というのは「ヘレニスト」とも言われ、外国で生まれ育ったギリシア語を話すユダヤ人のことです。また、「ヘブライ語を話すユダヤ人」とは、もともとユダヤにいて先祖伝来のヘブライ語を話すユダヤ人のことです。言葉の違いがあると、気持ちの通じ合いが難しくなります。ですからこの問題は、アナニア夫妻の事件のように誰かが起こしたわけではなく、人数が多くなった上に言葉の違いから来たもので、言わばコミュニケーションの問題でした。

 ではどういう問題だったのでしょうか。「(1節)ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。」苦情の申し立ては「ギリシア語を話すユダヤ人」から出てきました。仲間のやもめたちが日々の分配(食事の配給)のことで軽んじられている、という訴えです。外国で生まれ外国で育ったユダヤ人の中でも、敬虔で信仰深いユダヤ人たちの中には、歳を取ると聖なる都エルサレムで葬られたいと願って、母国ユダヤに引っ越してくる人たちがいました。従って「ギリシア語を話すユダヤ人たち」の中には「やもめ」が多かったことは想像できます。さらにこの「やもめたち」は身寄りがないので、あらゆる面で「日々の分配」(食事のお世話)が必要だったのです。

 今まで見てきましたように、初代教会はみんなが共同で暮らしていて、その助け合い資金は、「使徒たちの足もとに置かれて」管理されていました。(4章35節37節、5章2節参照)しかし、信者の人数が増えて、しかもそれらの人たちが使う言葉が違っていたとしたら、そういう人たちの世話を十二人の使徒だけで対応することができたでしょうか。中には見過ごされてしまって「軽んじられている」と文句を言う人たちが出てきたのかもしれません。

 しかし、そういう苦情があることを知った使徒たちが、もしこの問題をはやく解決しようとして、今まで以上に「日々の分配」のことに一生懸命になったとしたら、彼らにとって第一の務めである「神の言葉」への奉仕をする時間がなくなってしまいます。そうかといって困窮している「やもめたち」をなおざりにすることはできません。そこで使徒たちはある解決策を講じました。「(2-4節)そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。『わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。』」

 この提案は全員の承認するところとなりました。そして実際に七人が選ばれたのです。「(5-6節) 一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。」このことは、たぶん現在のどの教会にもおられる教会執事あるいは教会役員の起源であり、教会組織ができた始まりであると言われています。ここには教会が教会としての働きを成していく上での大切な原則があります。

 教会はキリストの体であると言われています。私たちの教会の今年度の主題は、奇しくも「キリストのからだを建てあげる」です。コリントの信徒への手紙二27節「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」が年間聖句になっています。からだというのはさまざまな器官からなる組織体です。また各器官にはそれぞれ異なった働きがあります。つまり教会の一人一人は、みなそれぞれに神に召されているのですが、神はその一人一人を異なる形に召しておられるということです。ここで言うならば、それは「日々の分配(食事のお世話)」と「神の言葉に仕える」という分担を指しています。どちらが優れているかの問題ではありません。両方ともに教会での大切な働きであって、聖霊に満たされた霊的な働き人を必要としていました。ただ神に仕える奉仕の種類が違い、必要としている賜物が異なっているのです。ここでは、使徒たちが神の言葉に仕えるという、本来の働きが出来なくなっていたことに問題があったのです。
使徒たちはそのことに気づかされたことで、七人を選ぶことを提案したのです。その資格は何だったのでしょうか。それは霊と知恵に満ちている人を選ぶことでした。言葉の違いは、習慣や考え方の違いにも影響しますから、「ギリシア語を話すユダヤ人」と「ヘブライ語を話すユダヤ人」の間に立って、バランスのとれた対応ができる人を選んだのだと思います。また、皆から「評判の良い人」が選ばれました。この言葉はもともと「実証されている人」という意味ですから、彼らの実生活においても良い証しを立てている人のことでしょう。そのような考えによって選ばれた七人が任命されました。「(6節)使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。」ここにはじめての教会執事が誕生したのです。

 このようにして、教会の内部でくすぶっていた問題は解決へと導かれました。そしてその結果は明らかでした。「(7節)こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。」使徒たちが祈りと御言葉の奉仕に専念することになった結果、神の言葉はますます広まっていきました。弟子の数が増加しました。しかも「エルサレム」という、キリストに対する反対者が多くて、おまけに使徒たちの以前の弱腰の有様や失敗したこと等を良く知っている人が多くいる、いわば一番伝道しにくいであろうと考えられる地で弟子の数が増えていったということは、驚くべきことです。ただ弟子の数が増えたというだけではありません。その中でも特に「(7節)祭司も大勢この信仰に入った。」のです。祭司たちはもともと反キリスト勢力の先頭に立っていた人たちです。その彼らがキリストを信じる信仰を受け入れたのです。エルサレムにおいて、主の福音の影響力は一段と力強いものになっていきました。

 私たちは単純に教会にはトラブルや問題など危機的状況など無い方が良いと思っています。しかし初代教会のこのようなあり方を見ますと、何らかのトラブルや問題が起きたことによって、それを解決するための方法が考えられ、その共同体がより良い組織となり、弱い所が強められていったのです。教会という共同体を形成していく上で学ぶべきことがたくさんあると思います。神はすべてのことを私たちの益となるように導かれます。神がなさることには何一つ無駄なことがないのです。

 さて、教会内部が落ち着いてきたのはよかったのですが、神の言葉に仕えることに専念した使徒たちによる大胆な伝道活動は、同時に激しい迫害をも引き起こしました。8節からは、選ばれた七人の中の一人、ステファノについて書かれています。ステファノは、選び出された七人の筆頭に名前があげられていますから、たぶんそのリーダー格だったのでしょう。彼は教会内のこまごました働きに従事するだけでなく、「(8節)ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた。」とあります。一教会の執事であるステファノによって「すばらしい不思議な業としるし」がなされていたのです。ここには初代教会ではだれもが主のために働き、力ある業を行っていたことがわかります。

 ステファノがこのようなめざましい働きができたのは、彼が聖霊に満たされていたからです(3節5節8節参照)。また彼は「恵みと力に満ちていた」とあります。恵みというのは、神から人間に与えられる一方的な愛と憐みの心です。彼はその恵みに満たされていましたから、貧しいやもめの苦情を受け止めて配慮することができ、病気やその他いろいろな苦しみにある人たちを慰めて、不思議な業を行うことができたのです。また彼は力に満ちていました。単なる優しい愛の心だけでは奇跡は起こりません。そこにはやはり力が必要です。1章8節「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」とありますように、ステファノは聖霊に満たされていたので、その力を受けていたのです。また彼には知恵も与えられていました。多くの人々から様々な議論が投げかけられた時、彼は知恵によって語ったのです。何を語ったらよいか判断できる能力です。ステファノは神の力が豊かに働かれるような信仰に満ちた人でした。

 ところが、ステファノのように優れた人がどんなに心を尽くして語っても、キリストの福音を素直に受け止められない人々がたくさんいました。それは当時も今も同じです。「(9節)ところが、キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる『解放された奴隷の会堂』に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たちが立ち上がり、ステファノと議論した。」エルサレムには、奴隷の身分から解放されたユダヤ人たちが自分たちの会堂を持っていました。彼らはステファノに議論を吹っかけたのですが、「(10節)しかし、彼が知恵と“霊”とによって語るので、歯が立たなかった。」そこで、「(11節)彼らは人々を唆して、『わたしたちは、あの男がモーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた』と言わせた。」ある人々を唆して偽証させたのです。冒涜罪です。さらには「(12節)また、民衆、長老たち、律法学者たちを扇動して、ステファノを襲って捕らえ、最高法院に引いて行った。」ついにステファノを捕らえて最高法院に引き立てていったのです。

 それから彼らは偽証人を立てて、次のように訴えさせました。「(13-14節)この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。わたしたちは、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」この偽証のさせ方は、イエスに対して彼らがとった手段と同じようなことです。自分たちの立場を守るためだったらどんな手段も選ばないという彼らのやり方には、いつの時代も変わらない人間の罪深さを見る思いがします。

 それに対するステファノの態度はどうだったでしょうか。「(15節)最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。」これは何と驚くべき姿でしょう。人間は、普段は穏やかな人であっても、不当な扱いや中傷を受けたりすると激高する人が多いのですが、ステファノは憎しみや嘘によって訴えられてもその心は乱されることなく、その顔は天使のようであったというのです。心から主に信頼し、聖霊に満たされているというのは、このような状態を言うのではないでしょうか。ステファノこそがそのみごとな証人だと思います。

 本日、「大規模修繕感謝礼拝」という場で、この御言葉が与えられたことに、私は、私たちに対する神の御心を思わせられました。キリストのからだである教会を建て上げていくのに必要なのは、私たち一人ひとりに与えられている賜物を尊重して助け合い、神を信頼して祈り、すべての導きを委ねていくことではないでしょうか。きれいになった教会堂にさらに必要なものが整えられていき、キリストのからだである教会をこれからも元気に成長させていきたいと心から願っております。

(牧師 常廣澄子)