一つの体に多くの部分

2023年10月29日(主日)
主日礼拝

コリントの信徒への手紙 一 12章12~27節
牧師 常廣澄子

 パウロは、コリント教会の中に分派や党派があり、互いに対立し争っていることを耳にして心を痛めていました。そのことをこの手紙の冒頭(1章10-11節)で触れていますので、パウロにとってはその問題が並々ならぬ関心事であったことがわかります。そしてその対立や分争というのは、単なる立場や意見の相違というような次元のことではなく、互いに譲れないほどその人の人格に関わるようなものであったようです。つまり個々人に与えられている賜物に関わるものでした。

 コリントにあった教会は、パウロが「(1章5-7節) あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。 こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。」と語っているように、一面ではとても豊かな教会でした。そのことはパウロも感謝しています。しかし、ここで言われている賜物というのは、コリント教会の人々が生まれつき持っていた能力や実力、知恵ではありません。それは「(1章28節)また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。」とあるように、無きに等しい者を選んでくださった、神の選びの結果なのです。ですから、恵みの賜物と言えるのです。

 しかしながら、これがいつのまにか、人間の誇りに変わっていってしまったのです。恵みとして与えられた力をまるで自分がつくり出したかのように誇り、互いに譲りあわずに対立しているなら、教会の一致は破られてしまいます。このような分派争いに対して、パウロは「(1章13節)キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。」と悲痛な叫びを発しています。分かたれるはずのないキリストとその体である教会の命が危機に瀕しているのです。

 前回もこのことに触れましたが、教会内の分争や対立の根にあったのは、「異言を語ること」に対する考え方でした。異言を語ることをまるで最も優れた霊の賜物を持っているかのように主張したり、そのようにふるまう人達がいたのです。異言を語れないのならキリスト者失格であるかのような極端な主張も現れました。このような霊的熱狂主義者たちの熱心さを鎮めて、本来の教会のあり方にもっていき、教会の徳を高めていくためにはどうしたらよいのかを考えながら、パウロはここで霊の賜物の多様性について語っていきます。神は、神を信じる一人ひとりに、様々な賜物を与えておられるのですが、それらの多種多様な賜物の中に働いておられる神は同じお方である、ということをパウロは明らかにしていくのです。

 パウロはそれを人間の体の働きを比喩として用いながら説明していきます。教会をキリストの体としてとらえ、そのように表現する教会理解は、パウロの独創的なものです。そのはじめは、ガラテヤの信徒への手紙3章27-28節に出てきます。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」ここでは私達は皆キリストにおいて一つであると語られています。コロサイの信徒への手紙1章18節では「御子はその体である教会の頭です。」とあり、キリストが教会の頭であると説かれています。

 人間の体、とりわけその身体的機能をとりあげて、それを比喩として用いることは、古代の文献の中にはしばしば登場しているそうです。ストア哲学においては、集団に対しておこなう個人の献身や奉仕を、人間としての義務として教える際に比喩として用いられていたそうです。パウロがそれらの文献を呼んでいたのかどうかわかりませんが、人間の体の働きは誰でもわかっていますから、このことを譬えて用いれば、誰にでも理解できます。私達も日々自分の身体のことで身を持って知っていますが、体のどの部分であれ、どんな小さな部分であれ、なくてはならない大事なものです。

 しかし、ただ比喩として体が大事なのではありません。キリストが身体性をとられるという、その現実感こそが大切なのです。「(18節)そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。」「(24節) 見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。」このように、「体に一つ一つの部分を置かれた」「体を組み立てられました」というように、神の主体性が語られています。私達人間の体に一つひとつの部分を置かれ、体を組み立てられたお方は主なる神です。それは教会という神の体でも同じなのです。

 教会というのは、神がキリストを通して、この世界の只中に入ってこられたという終末的出来事から始まりました。それは過ぎ去っていく世界の歴史の中に、新しい創造が起こっているということでもあります。また、キリストは「規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(エフェソの信徒への手紙2章15-16)とありますように、キリストの教会は何よりも神の出来事なのです。

 パウロは教会を単なる人間の集合体とか団体のようなものとは思っていません。たしかに教会を構成しているのは、現実には一人ひとりの人間であり、神を信じる信仰者です。私達が形作っている交わりが教会と呼ばれています。しかし私達が持っているその信仰は、神によって与えられたものです。ですから、信仰も、信仰者達によって形作られる教会も、その本質はただ神お一人の中にあるのです。従って、パウロは教会のことを「神の教会」と呼んでいます。(コリントの信徒への手紙一1章2節、10章32節等)その教会が一つであること、また、その教会が「霊の賜物」や「恵みの賜物」においていろいろと多様性に富み、豊かであることも、教会がまさに「神の教会」であるからに他なりません。

「(13節)つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」ここを読めばわかるように、神が「一つの体」として創造された「キリストの教会」が分裂することはあり得ません。教会が一つであるということ、あるいは教会の一致ということは、その構成員である一人ひとりが頑張れば作り出せるものではないからです。教会はすでに「一つ」として創造されているのです。「一つの体なる教会」を神が造られたのです。

 それにもかかわらず、もしその教会が一致を欠き、一つでないとするならば、それはその構成員である人間が一致を破壊しているということなのです。「(15-16節)足が、『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、『わたしは目ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。」つまり、既に一つに結合されて、各々がかけがえのない働きを与えられて活動している「神の体」である教会を、人間が勝手に分裂させ、破壊させているのです。そしてそれは「(18節)神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。」と言われる神に対して反逆していることなのです。また、「(22節)体の中でほかよりも弱く見える部分」を軽蔑するならば、それは「(24節)神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。」という神に反逆していることになります。

「キリストの体」として神が創造なさった教会が「一つ」であることを本当に理解する者だけが、「(12章4節)賜物はいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。」とあるように、その教会に与えられている「霊の賜物」の多様性がまことに豊かであり、そのうちの何かを絶対化して、他を排除するなどということは全くあり得ないということが理解できるのです。「霊の賜物」が実に多種多様であることを理解しない者は、実は「キリストの体なる教会が一つ」であることについても何も理解していないということです。

「(26-27節)一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」
このところは、非常に大事なことを語り、大きな意味を持っていると思います。
本来、人間の苦しみ、苦悩というものは、きわめて孤独なものです。今の時代は、誰もが自分のことをあまり語りません。しかし、非常に多くの人々が死にたいほどの苦しみや悲しみに出会っています。私達は簡単に、他人の苦しみを理解できるとか、共感するとか言いますが、実際にはそんなに易しいことではありません。一体私達の誰が、他人の苦しみの深みに立ち入るだけの鋭い感受性、あるいは確かな共感力、あるいは自分を捨ててその人に対して成しうる愛を持っているでしょうか。多くの方は、苦しむ人を前に自分の愛の貧しさ、乏しさに気づき、彼あるいは彼女の前に誠実であろうと思うが故に、かえってその人の苦しみを見守る他には自分には成すすべのない辛さを経験したことがあるのではないでしょうか。人間である限り、私達は多くの他の人と共に生きています。もし誰かが苦しい思いをしていることがわかったなら、その心の悩みを敏感に感じて寄り添い、共に生きていくことです。その他に共に生きるという術はありません。共感するとか、連帯するとか、共苦するとか、こういう美しい言葉を簡単に使いますが、今日の私達はパウロが言うような、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ」と言えるような社会ではないことに、深い悲しみを覚えます。

 私達の心はいったいいつからこんなに冷えてしまったのでしょうか。この冷え冷えとした社会の中で、苦しみを抱えて生きる人間はますます孤独です。その苦しみが誰とも分かち合われず、誰にも理解されずにいるならば、孤独な苦しみは人間をますます孤独にします。苦しみの中にただ放りだされているだけならば、私達はもはや自分でその苦しみを担う気力さえ失ってしまいます。
どういうわけか今日の私達はすっかり悲しむことや悩む力を失ってしまったようです。それはあまりにも悲惨で辛くて悲しい出来事が多すぎるからでしょうか。今の時代は、悲しむべきことや悩むべきことが数え切れないほど多くあるのに、私達の心は動きません。悲しむ力の欠如です。悩む力の喪失です。そしてこれは人間性の喪失だと思います。悲しみ得ること、悩み得ること、これは間違いなく人間的なことなのです。それは人間の崇高な能力なのです。

 そしてこのような私達にパウロの言葉が響くのです。「(27節)あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」私達はキリストの体に属しているのです。私達は既に分かちがたくキリストに結びついているのです。この結びつきを脱して自由になろうとするなら、それは死に至ります。しかし、死への自由は本当の自由ではありません。キリストは私達にその道を選ばせません。キリストの体に分かちがたく結びつけられた私達に、キリストの血と命が通わないことはありません。キリストの十字架の、あのすべての人間のために流された血の鼓動や温かさが伝わってこないことはあり得ません。この鼓動こそ、冷えきった私達の心を温め、生かすただ一つの力であると思います。私達の中に、もう一度、誰かのために一歩踏み出す勇気が生み出されるのです。

 もし私達の人生に何か目標があるとすれば、それは、日々の生活で出会う人たちの中に、もし悲しみや苦しみや痛みに気づいたなら、それに近づきそれを分かち合うこと、また、他の人に何か喜びを発見したなら、共にそれを喜ぶことなのだと思います。私達の主キリストは、そのような人生を祝福し、私達と共に生きていてくださいます。インマヌエルの主は決して離れることがありません。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」これはもはや律法でも命令でも義務でもありません。パウロがこのことを自然体で書いているのは、キリストにある者の人生はまさにこうなるのが当然であるからでしょう。キリストこそは、人と人とを肢体として互いに分かちがたく結びつけられ、主の業をなす教会として建てられるからです。パウロが神の教会を建て上げるために指摘していることを、私達も大切に心がけたいと願っております。

(牧師 常廣澄子)