天の戦い

2023年11月5日(主日)
主日礼拝『 主の晩餐 』

ヨハネの黙示録 12章7~18節
牧師 常廣澄子

 今までに繰り返し語ってきましたが、「ヨハネの黙示録」が書かれた時代は、キリスト者が迫害され、皇帝礼拝や偶像礼拝が強要されるような大変厳しい時代でした。その苦しさと生きづらさのゆえに、キリストへの信仰を持って生きるということを断念する者もあったようです。また周囲からキリスト信仰を捨てるように強いられたりもしました。そういう時代ですから、普通に読んでもわからないような表現を用いて書かれ、ただ聖霊によってわからせていただいたのです。

 今朝お読みいただいた御言葉は黙示録のちょうど真ん中あたりにあります。分量的に半分くらいのところにあるというだけでなく、この個所は、第七の天使が吹き鳴らすラッパの音と共にここから決定的な事柄が展開されていくという意味で、中心的な役割を果たしているところです。

 前回は12章の始めの部分から、天に大きなしるしが二つ現れたことをお話ししました。一つは子を宿した女の姿で、もう一つはこの女の前に立ちはだかる巨大な赤い竜という形で現わされていました。4節にあるように、竜が最も恐れ嫌っていたのはこの女が子を産むことでした。ですから子を産んだらすぐその子を食べてしまおうとしていました。できることならその妊娠すら妨げたかったに違いありません。この女と産み出される子どもは何を意味しているのでしょう。5節には、女が男の子を産んだと告げています。そして生まれた子は「鉄の杖ですべての国民を治める」ことになっていたこと、またその子は神のもとに引き上げられ、玉座についていると語られています。代々の教会はこの生まれた子をイエス・キリストの誕生と死と復活に重ねあわせ、今、父の右の座に座しておられるお方、キリストとして理解してきました。また、この女は教会を象徴するものとして考えられてきました。竜はその尾で天の星の三分の一を掃き寄せて地上に投げつけました。極度に光を嫌っている証拠です。しかし星は掃き寄せて捨てることができても、女を消すことはできませんでした。女は竜の悪魔的な力から逃げるために荒れ野に逃げ込みました。荒れ野には、神が彼女を1260日(3年半)の間守り養ってくださると約束された場所がありました。

 今、この世に置かれている教会は、約束の地を目指して荒れ野を旅する古代のイスラエルの民に似ています。時代が移っても、教会は荒れ野を旅する民のように飢えと渇きに苦しみ、危険や迫害に遭うさすらいの旅人です。しかし、目指す目的地に向かって確信をもって歩み続ける民です。それだけでなく、私達が信じる神は、荒れ野にある私達に必要なものを与え、その群れを守り導き養ってくださるのです。これらのことは、聖書全巻を通して語られていることです。イスラエルの民が荒れ野を旅した時、天からのマナで養われたように、今も神は私達を御霊と御言葉という天よりの糧を与えて養っていてくださるのです。イエスご自身がこのように言われました。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネによる福音書6章35節)
 さて、7節からは大変なことが書かれています。一つは天における戦い、もう一つは地上におけることで、ある意味で戦いとも言えるものです。この両者は一見別々のことのようですが、天上での戦いの結果として地上の戦いが起こっているのです。この二つの戦いは表裏一体の関係と言ってもよいと思います。では、天における戦いとはどういうことなのでしょうか。「(7-9節)さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。」天での戦いというのは、ミカエルとその使いたちが竜と戦ったことです。その結果、巨大な竜、すなわち全人類を惑わす、悪魔とかサタンとか呼ばれる蛇は倒されて、地に投げ落とされてしまったのです。つまり勝てなかったのです。完了形ですから既に決着がついています。ここのところをしっかりと捕らえておかなければなりません。

 ところで、このミカエルとは誰なのでしょうか。ダニエル書12章1節に「その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。」とありますように、ミカエルは天使の一人、大天使長です。ユダヤではイスラエルを守る守護天使とされていて、敵に立ち向かって戦い、イスラエルに平和や助けをもたらしてくれる存在です。このミカエルとその使いたちが天において竜と戦ったのです。竜とその使いたちが応戦しましたが勝つことはできず、ついにミカエルたちによって倒されてしまいました。ここに描かれているミカエルの姿は、イエス・キリストの姿を反映していると考えられています。つまりキリストが竜と戦われ勝利されたのです。もはやこの巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、天に居場所がなくなってしまいました。それでついに地上に投げ落とされてしまったのです。

 天において勝利の宣言がなされます。「(10-11節)今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。神のメシアの権威が現れた。我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と自分たちの証しの言葉とで、彼に打ち勝った。彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。」キリストが十字架で血を流されたことによって、竜は敗北したのです。竜は年を経た蛇、悪魔、サタン、全人類を惑わす者、告発する者でした。エデンの園で起きた出来事の蛇のように、人間を惑わして神に反逆させるものでした。人間に向かって神などいなくてもやっていけると思わせるのです。そしてそのように人間を惑わしておきながら、神様の前では、人間はこんなに悪いことをしているのだと告発するのが悪魔のやり方です。しかし、いくら悪魔が私達の罪を告発しても、私達はキリストの血によって勝利に与らせていただいています。キリストの十字架は「あなたを赦す」と宣言されていることに他なりません。ですからこの信仰の証しをもってサタンと戦っていきたいと思います。エフェソの信徒への手紙6章11節には、「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」と書かれています。(真理の帯、正義の胸当て、平和の福音を告げる履物、信仰の盾、救いの兜、霊の剣等々)

 さてもう一つの地上での戦いがあるのですが、その前に、今の世界の有様を見ておきたいと思います。今、人間の歴史はどこに向かっているのでしょうか。昨年勃発したウクライナとロシアの戦争が今なお終わりを見せずに続いている中、今度はパレスチナのガザ地区でイスラム原理主義ハマスとイスラエルの間に戦争が始まっています。
人は誰もが平和に安全に幸せに生きていきたいと願っています。しかし、今それが逆の方向に進んでいるように思えます。人間はより幸せに暮らしていけるようにいろいろな発明や発見をし、様々な研究を積み重ねてどんどん快適な生活ができるようになりました。多くの人達はさらによい社会を作ろうとして、資本主義や社会主義など様々な社会体制が考え出されました。
しかし現実はどうでしょうか。思想、信条、宗教、民族などの違いによって、対立や争いが激しくなっています。世界中で戦争や紛争、テロが止むことがありません。自分たちの平和や安全が脅かされるからといって、それを守るために相手を倒すことを考えます。それは相手側にも敵意や殺意を生みだします。憎しみ合い、殺し合いの連鎖が続いているのです。
人と人、国と国の利害が複雑に絡み合ってさらに対立が激しくなってきて、今では解決の糸口すら見出すことができずにいます。今まで長い間、人間は自分達のことは自分達で話し合ってすべて解決できると思っていましたが、人間はもはや自分達の手で、問題を解決することができなくなっています。人間が自分達を神としてきた罪の結果が今日の悲惨な状況を生んでいるのだと思います。

 人間社会がこのような悲惨な状態になったのは、9節にありますように、巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者が地上に投げ落とされたからです。そして「(12節)地と海とは不幸である。悪魔は怒りに燃えて、お前たちのところへ降って行った。残された時が少ないのを知ったからである。」この竜は怒りに燃えてこの世を支配しようとしているからです。
今、私達が生きているこの地上は、この竜によって悪の力の攻撃を受けていて、ますますその勢いを増しているのです。私達人間はその力にそそのかされ、引きずり回されています。

「(13節)竜は、自分が地上へ投げ落とされたと分かると、男の子を産んだ女の後を追った。」竜は地上に投げ落とされてもなお女を追いかけています。前回学びましたように女は教会をあらわしています。キリストを信じる群れである教会はことさら悪魔の標的になるのです。

 今の時代、キリストを信じる信仰を持っていても、ただちに暴力的な迫害に遭うことはありません。しかしキリスト信仰を持つことが極めて困難な時代であることは間違いありません。迫害の時代とは違った意味で、今は信仰が持ちにくい時代だと思います。信仰をもって生きることさえも難しい時代かもしれません。実際今の時代、信仰を持って生きる者の存在感がどれだけあるでしょうか。教会はどれほどの力を持っているでしょうか。この世の波に押し流されて、教会はどんどん小さくなっています。さらには真理の御言葉が薄められ、ごまかしや見せかけの信仰が入り込んでいます。ある意味では、まんまと悪魔の策略にひっかかっているところがあるのかもしれないのです。

 ペトロ第一の手紙5章8-9節にはこのように書かれています。「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。」天において悪魔(サタン)は決定的に敗北しています。イエス・キリストの十字架の死と復活において、サタンの力は打ち破られたからです。しかし地上においては、「食い尽くそうと探し回っている獅子」のように存在しているのです。私達はこれに対して身を慎み、目を覚まして抵抗するように言われています。

「(14節)しかし、女には大きな鷲の翼が二つ与えられた。荒れ野にある自分の場所へ飛んで行くためである。女はここで、蛇から逃れて、一年、その後二年、またその後半年の間、養われることになっていた。」ここには、女に大きな鷲の翼が与えられたと書かれています。旧約聖書には、大きな翼の鷲になぞらえて、神の保護や守りを言い表しているところがたくさんあります。これは荒れ野に生きている女(教会)を主のみ翼が守り保護し導いてくださるということです。「一年、その後二年、またその後半年の間」という数え方は今までにもでてきましたが、3年半ということで、7の半分です。主が来られて決着をつけてくださるまでの期間ですが、竜が怒って暴れるのは限りある期間だということです。

「(15-16節)蛇は、口から川のように水を女の後ろに吐き出して、女を押し流そうとした。しかし、大地は女を助け、口を開けて、竜が口から吐き出した川を飲み干した。」今度は竜は口から川のように水を出して、女を押し流そうとします。教会は世の荒波に翻弄され、時には跡形もなくなるほどに押し流されてしまうことがあるのです。イエスが語られたように、教会も私達の信仰も、しっかりした岩の土台に建てられた家のようでなくてはなりません。世の中にまん延している風潮や人間的な意見に心を動かされて浮足たつならば、その足もとをすくわれ、飲み込まれてしまうに違いありません。教会の信仰告白が問われている時代なのです。

「(17節)竜は女に対して激しく怒り、その子孫の残りの者たち、すなわち、神の掟を守り、イエスの証しを守りとおしている者たちと戦おうとして出て行った。」ここにある「その子孫の残りの者たち、すなわち、神の掟を守り、イエスの証しを守りとおしている者たち」というのは、明らかにキリストを信じる私達のことです。竜に表されるサタンの力は、信仰者に襲いかかってきます。地上にある私達にはたくさんの苦しみが待っているのかもしれません。しかしそれは長い期間ではありません。天において既に勝負はついているのです。既にキリストは勝利しておられます。しかしこの世の戦いはまだ終わりではないのです。「(18節)そして、竜は海辺の砂の上に立った。」は、次の13章に続く言葉ですが、恐ろしい獣の支配が待っています。しかし、主は今も御霊と御言葉で教会を支え、教会を立て上げていてくださいます。イエス・キリストにある私達は日々主に信頼し、世に勝つ信仰に立って地上の人生を歩んでいきたいと願っています。

(牧師 常廣澄子)