惑わされないように

2024年2月4日(主日)
主日礼拝『 主の晩餐 』

ヨハネの黙示録 13章11~18節
牧師 常廣澄子

 ご一緒にヨハネの黙示録を読み進めています。いつも同じことを言うようですが、ここに描かれているいろいろな場面や状況は何とも奇妙でなかなか理解できません。しかし何かしら感じる所があるのではないかと思います。七つの封印で封じられ、誰も開くことも見ることもできなかった巻物は、小羊イエスによって開かれていきました。そして、最後の第七の封印が解かれ、七人の天使が次々と吹き鳴らすラッパの音とともに明らかになって来たのは、神を離れた罪の心で生きる人間の有様、人間世界の不義の姿です。封印が解かれたということは、現実の有様をしっかり見させたということではないでしょうか。

 今、我が国の国会では議員が属する派閥のことやその不明朗な会計処理のことが取り上げられ、改善策が話し合われています。そのことももちろん解決されなければならないことですが、今日本の国は膨大な赤字を抱えています。少子高齢化にある国民の福祉の為より、防衛費に多額の予算を取っているからです。毎年大量の国債を発行してしのいでいますが、この金額の付けはすべて私たちの子どもたちや孫の世代、そのまた次の世代に託されていくのです。民間企業であれば既に破産し倒産している状態です。赤字を知っていながらそのまま封じ込めていてよいはずがありません。原因を探って少しでも解決への道が講じられないなら、更に悪化するばかりでいつまでたっても解決できません。どうか国民のための政治が正しい方向に進められますようにと心から願っています。このヨハネ黙示録では、封印が解かれ、次々と恐ろしい事態が起こりますが、少なくともその様子を知ることによって、人間世界の有様を改善していく方向に舵を切ることができるかもしれません。

 今まで見てきたことをたどってみますと、まず天に二つのしるし、一つは子を宿している女、もう一つは巨大な竜があらわれました。この二つは天で戦い、竜は女に負けて地に投げ落とされてしまいました。しかし地上に投げ落とされた竜は手下の二匹の獣にバトンタッチして、なおもしつこく女を追いかけているのです。前回は一匹の獣が海から上がってきたことを読みました。今朝お読みした11節では、「わたしはまた、もう一匹の獣が地中から上って来るのを見た。この獣は、小羊の角に似た二本の角があって、竜のようにものを言っていた。」天から投げ落とされた竜が姿を変えて、今度は地上に現れたことが書かれています。竜は二匹の獣となって猛威を振るうのです。一匹は海から上がってきましたが、もう一匹の獣は地から上がってきました。海からも地上からも獣が現れるということは、彼らが全世界を縦横無尽に動き回っていることを告げているのではないでしょうか。

「この獣は、小羊の角に似た二本の角があって」この獣は先に現れた獣とは違って一見おとなしそうです。人々に不安や恐怖を与えるような恐ろしい姿ではありません。何だか私たちがよく知っている屠られた小羊イエスに似ています。イエスはかつて、自分こそがメシアだと名乗って登場する偽の救世主たちが現れることを予告されていましたが(マルコによる福音書13章14~23節参照)、その言葉のような出来事が起きているのです。
悪魔は私達人間に近づいてくる時、どんな姿でやって来るのでしょうか。悪魔が圧倒的な悪の力や武力などで迫ってくるならば、人間は誰でもこれは危険だと身構えて対応します。私たちは悪魔というものはそのように人間に迫ってくるものだと思っています。しかし、このもう一匹の獣は、私たちのそのような単純な考えを打ち破ります。つまり巧妙に、不安や恐怖心を与えない姿で近づいて来るのです。目に美しい姿をして、優しい声で近づいてきますから、何の疑いもなく丸め込まれてしまうのです。それが悪魔の策略です。

 それは時に、人間にとっては好ましい思想や哲学や宗教であったりします。しかしそこには人間の心を狂わせる巧みな言葉が入り込んでいるのです。地から上がって来た小羊のような獣は、「竜のようにものを言っていた(11節)」のです。竜というのは、12章で「悪魔とかサタンとか呼ばれるもの」だと説明されていました。イエスのように小羊のような柔和な姿をしていても、その口ではサタンの言葉を語っているのです。この獣の力はあなどれません。天での戦いに敗れたとはいえ、投げ落とされた地上でなおもその威力を振るって人々を惑わせていくのです。そして人々の心を神から引き離し、何の根拠もない迷信や教えのとりこにしていきます。人間はまんまとそれに引きずり込まれ、信じさせられてしまうのです。
 
「(12節)この獣は、先の獣が持っていたすべての権力をその獣の前で振るい、地とそこに住む人々に、致命的な傷が治ったあの先の獣を拝ませた。」この獣の姿で現れた悪魔的な存在は、地とそこに住む人々をひざまずかせ、先の獣を拝ませたと書いてあります。致命的な傷が治った先の獣、というのは、当時ローマ帝国を支配していたディオクレティアヌス皇帝のことを言っているのでしょう。彼はキリスト教徒を迫害した皇帝ネロの生まれ変わりだと言う噂が流れていて、自殺したネロがまた登場して来たのだと、多くの市民が信じていたようです。
 ここには、真の神を信じているキリスト教徒の前に、皇帝礼拝を強いる強大なローマ帝国の姿があります。しかし、そういう状況を知らされ、そういう現実を見せられていながら、ヨハネはどうして神の真理を見ることができたのでしょうか。それはヨハネがただひたすら神の御言葉に生きていたからだと思います。ヨハネは、イエスの言葉や弟子たちの言葉、信仰に生きる人の言葉を大事に生きていたのです。生ける神への信仰を持って御言葉を読み、イエスの言葉を支えに生きていたヨハネの心は、この世の状況がどうであれ、目に見えるものや聞こえてくる人の言葉には左右されなかったのだと思います。

 この獣はさらに大きなしるしを行います。「(13節)そして、大きなしるしを行って、人々の前で天から地上へ火を降らせた。」天から火を降らせたと聞くと、預言者エリヤを思い出します。エリヤはバアルの預言者たちと対決した時、エリヤの祭壇に火が降って勝利したのです。これを見ていたイスラエルの民は「主こそ神です。」と言ったのでした。ここではエリヤがしたような業を、こともあろうに獣が行ったのです。目の前で獣が天から火を降らせたのを見たら、きっと人々は獣を本物の預言者だと思うでしょう。そして神ならぬもの、自分を神だとする人間を拝むようになるのです。こうして人々は惑わされていきます。

 人々を惑わしてしまえばもう獣のものです。「(14-15節)更に、先の獣の前で行うことを許されたしるしによって、地上に住む人々を惑わせ、また、剣で傷を負ったがなお生きている先の獣の像を造るように、地上に住む人に命じた。第二の獣は、獣の像に息を吹き込むことを許されて、獣の像がものを言うことさえできるようにし、獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせた。」獣は第一の獣の像を造るように人々に命じ、その像に息を吹き込んでものを言うことさえできるようにしてしまうのです。まるで神のような力を持っています。そして獣はその像を拝もうとしない者を皆殺しにしてしまうというのです。

 ヨハネが見ている幻は旧約聖書のダニエル書と深い関係があります。ヨハネはよくダニエル書を読んでいたのでしょう。ダニエル書にはイスラエルの民が捕囚によってバビロンに連れて行かれた時の出来事が書かれています。またダニエルが見た幻のことも書かれています。バビロンの王ネブカドネツァルは、金の像を造り、国中に「金の像の前にひれ伏して拝め、ひれ伏して拝まない者は、直ちに燃え盛る炉に投げ込まれる。」という命令を出しました。まさにヨハネが幻で見たように、獣の像を拝まない者があれば皆殺しにさせるという出来事が、既にバビロンで起こっていたのです。幻の世界のことではありませんでした。

 ダニエルは信仰の英雄と讃えられていますように、ネブカドネツァル王の前で堂々と神の言葉を語り、そのために捕らえられて、燃え盛る炎の炉に投げ込まれましたが、何の害も受けませんでした。あるいはダレイオス王の前でも真理を語り、ライオンの洞窟に放り込まれても何ともなかったのです。ヨハネはどんな思いでダニエル書のことを思っていたのでしょう。今、真の神を信じる自分の仲間たちは、実際に燃え盛る炉に入れられるように生きたまま焼かれ、あるいは闘技場でライオンの餌食になっていきました。ダニエルのように無傷ではなく、皆死んでいったのです。もっと大きな危機が来るかもしれないという予感すらします。

 ヨハネの時代はそのようなことが獣の業として現れていたのです。獣の像を拝まない者は殺されました。これは幻などではありません。実際にそのような世界だったのです。キリスト教の初期のおよそ300年間は、クリスチャンはこのように非常に苦しく困難な状況の中で耐えていたのです。いつも死を見つめて生きていなければならなかったのです。しかし神はそこで、他の宗教に勝つようにと戦わせることはしませんでした。10節に書かれているように「捕らわれるべき者は捕らわれていく。剣で殺されるべき者は剣で殺される。」これしか語られていません。非常に厳しい言葉ですが、ここには私たちの信仰とはいったい何であるのかが、最も純粋な形で問われていると思います。

 人々が獣の言うなりになったのは、そうしなければ生きていくことができなかったからです。「(16-17節)また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。そこで、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった。」印が押されるということは所有権を表します。ここでの刻印はその人が獣の所有物であるというしるしです。刻印のある者でなければ、物を買うことも売ることもできないのです。そうなれば人は生きていくことができません。だからすべての人が獣の言うなりになったのです。すべての者にその右手か額に刻印が押されました。よく見える場所ですから、誰が見てもこの人は獣の支配下にあるということがすぐわかります。そういう中では、刻印が無い者は生きていくことができませんでした。

 このことは、日本でも起こったのです。第二次世界大戦の時、大日本帝国は天皇を神としました。天皇を礼拝することを命じたのです。日本の教会でも宮城遥拝を行いました。教会も獣の刻印を受け入れたということです。教会も時の支配者に迎合していった時代があるのです。宮城遥拝をしない教会は弾圧され、牧師や信徒は投獄されていったのです。これを拒むなら村八分にあい、差別され、排除されて、すなわち死を意味しました。

 ここには、人々を惑わして支配する獣の名が数字で表されています。「(17節)この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。」「(18節)ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である。」
今は私たちは数を表すのにはアラビア数字を使います。しかし古代の人は数字を表すのに文字を使いました。ギリシア語やヘブライ語には数字がありません。文字が数値を表しています。たとえばAが一、Bが二、Cが三、というように。文字から数字にするのは簡単で、それぞれの数値を足していけば良いのです。しかし数字から文字を割り出すのはなかなか困難です。その数字になる文字の組み合わせは数え切れないほどあるからです。六百六十六が誰を表すのか、多くの人が解読を試みました。ネロを表すという人もいますが、結局はわかりません。ただこの数字が人間を表しているということだけです。さらにもう一つの考え方があります。聖書では6は完全数7の一つ前、つまり不完全な数ですから、「失敗したもの」あるいは「まだ目標に達しないもの」という理解があるのです。しかもその6を三つも重ねているのですから、「まったく救いがない」というとらえ方をしている学者もいます。

 今の世界を見てみると、人々を自分の思いのままに動かそうとする力がたくさん働いています。沖縄で示された国家権力もそうですし、多数を占める政党の力もあります。経済の面でも、財力があれば人々を動かせます。すべての人々はお金という獣を拝んでいます。まさに「小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者が」現代における六百六十六という獣の前に生きているのです。

「(18節)ここに知恵が必要である。」ここで必要な知恵とは理性的、知性的な知恵ではありません。それは信仰の知恵です。神から与えられる知恵です。霊的な知恵、神の霊に照らされた時に理解できる知恵ということができます。ダニエルは、自分がこの夢の解き明かしができるのは、聖なる神の霊によるのだと語っています。

 獣が支配するこの罪の世界に生きている私たちには、神から与えられる信仰と、霊的な知恵が必要です。主の日の礼拝で御言葉を聞き、御霊の導きをいただいて、私たちの信仰は研ぎ澄まされていきます。技術革新の進んだこの時代にあって、見えないものを見ていく信仰の世界は人々からは冷ややかに扱われます。しかし、ごまかされずに偽りを見抜いていくために必要な知恵は神から与えられます。私たちが生きていくべき唯一の真実の道は、十字架のイエスにおいて以外にはないのです。どうか新しい週も主なる神からの知恵を与えられて歩んでまいりたいと願っております。

(牧師 常廣澄子)