互いに高めあう

2024年2月18日(主日)
主日礼拝

コリントの信徒への手紙 一 14章1~25節
牧師 常廣澄子

 この「コリントの信徒への手紙」では、コリント教会において実際に起こっていたいろいろな問題を聞いたパウロが一つひとつ丁寧に論じています。どういうことが論じられてきたのかは、今までに少しずつ語ってきました。12章ではパウロは様々な「霊的な賜物」について語りました。そしてそれらの賜物の間には何ら差別がないことが強調されていました。教会ではどのような人もどのような働きもすべて主にあって等しく大切なのです。続く13章では意義深い「愛の賛歌」を歌いあげています。そのパウロがここ14章にきて異言のことを語っています。しかも「愛を追い求めなさい」という書き出しで書き始めています。つまり今まで語ったことを受けて話しているのです。

 この流れを考えますと、パウロの中ではこの異言ということがずっと念頭にあったのではないかと考えられます。パウロは、コリント教会の人たちに異言に対する正しい態度を教えるために、霊の賜物や愛について、段階を追って綿密に語ってきたのではないでしょうか。それだけ、異言というものを取り扱う上での困難があったのではないかと想像いたします。

 異言という事柄がどういうことであるかをご存じの方もそうでない方もおられるでしょう。これは神秘的な宗教体験によって起こる現象で、集会などで熱烈な説教を聞いて興奮が高まって来ると、ほとんど意味を持たない言葉や、断片的な語句を半ば興奮状態で語り始める人がいるのです。激しい身振り手振りが伴う場合もあります。言葉とも言えない無意味な音を発することもあります。今も日本を含め世界各国のキリスト者の間でこの異言現象を神の臨在の表れだ、霊的だといって歓迎する宗派があります。

 預言は「霊的な賜物」の一つだとされていますが、愛のように永遠ではありません。しかし「預言の賜物」を熱心に求めなさいと勧められています。「(1節)霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。」預言は、一般的に用いられているような、将来のことを予測して語るという意味だけでなく、もっと広く「神について」あるいは「神に向かって」語られる言葉のことです。

 ここではその預言を異言と対比させて語っています。この二つには共通点があります。すなわちこれらは神について語り、神に向かって語っている言葉だということです。しかし、その方向性が違っています。それは次のようなパウロの言葉ではっきり示されています。「(2-3節)異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。」ここには、異言というものがどういうものであるかが端的に語られています。異言は確かに神に向かって語っているのですが、それは致命的な問題点を持っているというのです。すなわち異言は、自分だけが満ちたりた状態であり、人に向かって語られていないために、誰にもわからないということです。従って、異言はただ自分を造り上げているに過ぎないというのです。「(4節)異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。」

 要するに、異言が自分のためだけを考えるのに対して、預言は他者である隣人のことを考えるものだといっているのです。もちろん異言も人々が理解できるように、誰か解釈する人がいる場合には必ずしも否定されてはいません。否定されるどころか、「あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはない」とさえ言っています。「(5節)あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはないと思いますが、それ以上に、預言できればと思います。異言を語る者がそれを解釈するのでなければ、教会を造り上げるためには、預言する者の方がまさっています。」ここでは、異言は解釈されて教会を造り上げるように働くのでなければ、異言よりも預言する者の方がまさっていると語っているのです。

 パウロは18節にあるように、誰よりも多く異言を語ることができました。だからといってあちこちの教会を訪問した時に異言ばかり話していたらどうでしょう。人々は理解することができず、何の役にもたちません。「(6節)だから兄弟たち、わたしがあなたがたのところに行って異言を語ったとしても、啓示か知識か預言か教えかによって語らなければ、あなたがたに何の役に立つでしょう。」あなたがたは私パウロが話す言葉から、啓示(真理が示される)、知識(真理についての理解)、預言(啓示をわかりやすく語る)、教え(それらを説明して実生活に適用する)などを聞き取らなければ満足しないではないかと語っています。

 異言に対してパウロは例えをもって批判しています。「(8-9節)ラッパがはっきりした音を出さなければ、だれが戦いの準備をしますか。同じように、あなたがたも異言で語って、明確な言葉を口にしなければ、何を話しているか、どうして分かってもらえましょう。空に向かって語ることになるからです。」異言を語っている者がはっきりしない言葉を語るのは、「ラッパがはっきりした音を出さない」ようなものだと言い、語っている言葉がわからないなら、それは「空に向かって語る」ようなものだとも言っています。

 およそ言葉にはなんらかの意味があります。「(10節)世にはいろいろな種類の言葉があり、どれ一つ意味を持たないものはありません。」パウロは言葉は通じなければ意味がないと言っています。「(11節)だから、もしその言葉の意味が分からないとなれば、話し手にとってわたしは外国人であり、わたしにとってその話し手も外国人であることになります。」信仰は聞いてわかる言葉によって語られなければならないのです。わかる言葉によって礼拝は形作られていくのです。

 パウロはおそらく異言によって混乱しているコリント教会が回復していくためには、みんなに通じ合う言葉によって礼拝が整えられなければならないと考え、それを心から願って語っていのです。確かに霊的であることは素晴らしい事です。神と親しく交わり、感謝し賛美し、祈ることは信仰者の大きな恵みです。しかし誰にもわからない異言を大きな声で語り、興奮して踊ったりすることが果たして主を証していることか、主の御栄光を現しているかが問題です。パウロはそのことを考えていたのだと思います。

「(12節)あなたがたの場合も同じで、霊的な賜物を熱心に求めているのですから、教会を造り上げるために、それをますます豊かに受けるように求めなさい。」ここで再び「霊」という言葉が出てきますが、今度はそれが「理性」と対比されています。「(14節)わたしが異言で祈る場合、それはわたしの霊が祈っているのですが、理性は実を結びません。」異言で祈っている時は、「霊」だけが祈っているのであって、「理性」は働いていないというのです。

「(15-16節)では、どうしたらよいのでしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう。さもなければ、仮にあなたが霊で賛美の祈りを唱えても、教会に来て間もない人は、どうしてあなたの感謝に『アーメン』と言えるでしょうか。あなたが何を言っているのか、彼には分からないからです。」異言によって「霊」で賛美の祈りを唱えたとしても、人々にはその意味がわかりませんから、誰も「アーメン」(その通りです)と言うことができないではないか、とパウロは指摘します。

 このように、異言に対してのパウロの考えを語っているのですが、その根底にあるのは、異言はそれを語っている人を造り上げるだけで、隣人や教会を造り上げるものではないということです。「(17節)あなたが感謝するのは結構ですが、そのことで他の人が造り上げられるわけではありません。」パウロが「理性」について語るのは、理性によって言葉の意味が通じて、それによってそれを聞いた人が造り上げられることを願っているからです。

 コリントの教会では異言を語る人がたくさんいたようですし、異言を語ることが称賛されていました。パウロ自身誰よりも多くの異言を語れることを感謝しています。けれども、異言は神との霊的交わりで用いられる個人的な体験です。だからパウロは一人でいる時に異言を語り、神と親しく交わって神から喜びと力と祝福を得たのです。集会では自分のことよりも、すべての人たちが教会を造り上げることに集中されなければならないと考えたからです。

 当時の混乱したコリント教会の状況を、健全な教会に成長させようとして語ったパウロの次のような言葉があります。「(19節)しかし、わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります。」自分だけが満足して人々に何の益も与えない異言を一万言も語るよりも、人にわかる言葉を五つ語って人々を教える方がはるかに尊いことだと言います。わずか五つの言葉であっても、その言葉が理性的に通じるものであるならば、そこに神の愛と恵み、生ける神が示されるのだとパウロは語っているのです。

 パウロは異言と預言の対比をさらに進めて、異言を子どもの考え方、預言を大人の考え方としてとらえています。「(20節)兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください。」子どもは無邪気で何もわかりません。だから悪事については子どものようであってもよいけれども、物の考え方ではそうではいけないのだと。すなわちここでは、何が教会にとって大事なことか、何が教会に益することかを十分に考えて行動しなさいと勧めているのです。

 さらにパウロはイザヤ書(28章11-12節)の御言葉を引用しています。「(21節)律法にこう書いてあります。「『異国の言葉を語る人々によって、異国の人々の唇で わたしはこの民に語るが、それでも、彼らはわたしに耳を傾けないだろう』と主は言われる。」これは本来イザヤ書が語っているもともとの意味からは少し離れているのですが、パウロはそれを異言に対する否定的な判断の基礎付けにしようとしたようです。

 パウロが異言を語ることを問題にしているのは、未信者のためのしるしとして、意義をなしていないからです。「(22節)このように、異言は、信じる者のためではなく、信じていない者のためのしるしですが、預言は、信じていない者のためではなく、信じる者のためのしるしです。」異言は確かに「霊の賜物」の一つとして神の存在を感じさせるものであるかもしれない、しかし、教会全員が一種の興奮状態で酔ったように意味の分からない言葉を語るだけで、誰もそれを解釈する人がいなければ、教会に入って来た人たちは、教会員を気が変になっている人たちだと思うに違いない、これではとても異言が未信者のためのしるしとは言えないではないかとパウロは言います。「(23節)教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか。」

 このように、異言によっては神の恵みを伝えることはできないのです。「(24-25節)反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなたがたの内におられます』と皆の前で言い表すことになるでしょう。」

 預言は、理性による言葉を通して信者を育て成長させ、教会員を造り上げるものですが、同時に、信者でない人や、教会に来て間もない人たちのためでもあります。彼らが教会に入って来た時、もし教会員全員が預言をしていたとしたら、彼らはきっと感動を受けるに違いありません。その預言の言葉の意味は彼らにも理解できるでしょうから、彼らの良心は責めを感じ、裁きを感じます。また心の奥にあるいろいろなことが明らかとなり、何一つ神の前に隠し得ないことがわかって来るのです。その結果、彼らは神を求めずにはおられなくなります。その時彼らは「まことに、神はあなたがたの内におられます。」と告白します。こうして遂に彼らは真の神を信じるようになり、神の前にひれ伏して、感謝をささげるようになるのです。これは大きな感動です。当時の人たちが信仰に入った時の様子がここに示されているように思います。

 しかしこれは現代でも変わりません。神の言葉が教会においてはっきりと宣教され、ここに神がおられますという強い印象を人々の心に与えることができないならば、ほかにどのような手段を用いても信じる人は起こされません。私たちの教会が本当に神の臨在があり、神の言葉が語られる教会でありますようにと願っております。

(牧師 常廣澄子)