刈り入れの時が来た

2024年5月5日(主日)
主日礼拝『 主の晩餐 』

ヨハネの黙示録 14章14~20節
牧師 常廣澄子

 先ほど、新生讃美歌601番を賛美しました。「やがて天にて、喜び楽しまん、君にまみえて勝ち歌を歌わん」と。この賛美には、主に結ばれて死ぬ者の幸いが歌われています。前回説教した御言葉から、ヨハネの黙示録14章13節をお読みします。[またわたしは天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ者は幸いである』と。」“霊”も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」]

 キリストを信じる者たちに対して恐ろしい迫害があった当時も今も、主を信じて生きる者にとって、この御言葉はどんなに大きな励ましであり、希望になっていることでしょうか。すべての人は間違いなく、遅かれ早かれ人生の終わりの時を迎えますが、多くの人が死に直面してうろたえ、戸惑い、恐れや恐怖を覚えつつその人生を閉じていく中で、主を信じる者たちは死を怖れることなく、感謝と喜びを持って死を迎えることができるのです。またその約束は、地上の生涯を閉じてから後もなお一層豊かなものです。「彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」苦労多く、涙の乾く暇もない人生であったとしても、主にあって死ぬ者はいかに幸いな者でしょうか。

 この御言葉は何度読んでも、心に感謝と喜びと平安を与えてくれる素晴らしい御言葉だと思います。ですから、主を信じて生きている者は、どんなに身体が弱っていって何もできなくなったとしても、召される時まで精一杯生きていくことができるのです。生も死も御支配くださるお方にすべてを委ねて生きていくことができるということは何という恵みでしょう。もし「主に結ばれて死ぬ」ということを知らなかったら、死はたとえようもなく悲惨な出来事であり、恐怖でしかありません。

 桜の開花と共に始まった新年度も早一か月が過ぎました。私たちの日常生活はそれなりに落ち着いているかもしれませんが、日々いろいろな変化もあり、予期せぬ出来事も起こります。そういう私たちのあわただしい生活の中で、決して忘れてはならないことがあります。それは私たち一人ひとりを贖ってくださった主の恵みです。救い主を知った喜び(救い主に知っていただいた喜び)とその祝福です。私たちを贖ってくださった救い主イエスは、神の小羊として十字架の上でほふられて死に、死からよみがえり、天に上って、今や輝く栄光の座に着いておられます。私たちは日々このお方を仰ぎ見ながら、おそば近くを歩ませたまえと祈り、そして、主の日の礼拝に集まって感謝と賛美を捧げているわけです。今日はゴールデンウイークの後半部分にあたります。多くの人たちが楽しみを求めて各地を旅行されたり、美味しいものを食べたりしている時に、皆さま方が主の日の礼拝を大切にされていることに、心から敬意を表します。

 さてこのように、救い主イエスを信じて生かされている私たちですが、日々、些細な事で心が揺さぶられたり、不安な思いに襲われたりすることがあります。信仰があっても、人間という者がいかに弱く小さな生き物であるかがわかります。神を信じる信仰は一体どこに行ってしまったのか、一体どこを見て生きているのかと、自分自身を振り返って嘆かわしい気持ちにさせられる時もあります。そのような私たちの心は、礼拝において本来の姿を取り戻さねばなりません。主なる神は、この礼拝の真ん中におられ、私たちを喜んで迎えていてくださいます。神は、御言葉というかけがえのない天からのマナを与えて私たちを養ってくださり、聖霊という見えないお姿で一人ひとりに必要な力と慰めと励ましを与えていてくださるのです。本日はこの後で「主の晩餐」が執り行われますが、神は聖なる晩餐という礼典を通して、私たちの心と体を支え、魂を神に近づけてくださいます。

 さて、本日の御言葉には「刈り入れ」ということが書かれています。この「刈り入れ」は、終末の審判を象徴的に表したものと考えられます。まず「(14節)また、わたしが見ていると、見よ、白い雲が現れて、人の子のような方がその雲の上に座っており、頭には金の冠をかぶり、手には鋭い鎌を持っておられた。」ここには白い雲の上に座すお方がおられます。白いというのは、輝く白さ、純白を指し、神の神聖さを表しています。雲は神がおられる場所表すものです。このお方こそ、王の王、主の主であり、十字架の死から復活して天に上げられたイエスです。このお方の頭にはかつては茨の冠がかぶせられ、鞭うたれ、嘲られ、唾を吐きかけられたりして痛めつけられたお姿でしたが、今は金の冠をかぶった勝利者として描かれています。ここで見落としてならないのは、その手に鋭い鎌を持っておられることです。鎌は植物などを刈り取る時に用いられるものですから、収穫の時が来たことを告げています。

「(15節)すると、別の天使が神殿から出て来て、雲の上に座っておられる方に向かって大声で叫んだ。『鎌を入れて、刈り取ってください。刈り入れの時が来ました。地上の穀物は実っています。』」この天使は神の神殿から出てきましたから、父なる神から御子イエスへの伝言、「地上の穀物が実っているから鎌を入れて刈り取るように」というメッセージを伝えています。

 聖書の中では、終末の審判の時を、穀物の収穫の時にたとえて言い表すことがあることは、良く知られています。同時にその刈り入れというのは、すべて残らずに刈り取って、刈り取られた後で選別作業が行われるのです。イエスもたとえ話の中でしばしば穀物の収穫のことを語られました。マタイによる福音書13章24-30節には、天国のたとえがこのように書かれています。[イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」]このたとえの説明が36節から43節に書かれていますが、「刈り入れ」は世の終わりのことだとはっきり書かれています。そして、刈り取られたものの中から、神の救いを信じて従った者は、神の倉に納められるというのです。

 イエスがまことのぶどうの木であって、イエスを信じる私たちはその枝である、というぶどうの木のたとえでは(ヨハネによる福音書15章参照)、イエスという木にしっかりつながっているならば、その人は豊かに実を結ぶと約束されています。そしてつながっていない人は枝のように外に投げ捨てられて枯れてしまうと言われています。私たちはこれらのたとえが意味することをしっかり聞きとらなくてはいけないと思います。

 イエスの十字架の贖いは、信じる者に与えられるのであって、その人の信仰が問題になります。イエスの十字架の贖いは私にとってかけがえのない救いの出来事だと信じて受け取り、イエスに従っていく者でありたいと心から願っております。「刈り入れ」というこの終末的な問題は大変大切なことです。この時に問われるのは、神の愛によるイエスの救いを信じる(良い麦)か信じない(毒麦)かということです。先ほどお読みしたマタイによる福音書の13章にあったように、主を信じる者は、その時、主の身許に集められ、天の神の倉に納められるのです。

「(16節)そこで、雲の上に座っておられる方が、地に鎌を投げると、地上では刈り入れが行われた。」第一の天使の声によって、地上では刈り入れが行われていきました。続いて17節にはもう一人別の天使が出て来ました。「(17節)また、別の天使が天にある神殿から出て来たが、この天使も手に鋭い鎌を持っていた。」神殿から出てきたこの天使も手に鋭い鎌を持っています。

 さらに今度は「(18節)すると、祭壇のところから、火をつかさどる権威を持つ別の天使が出て来て、鋭い鎌を持つ天使に大声でこう言った。『その鋭い鎌を入れて、地上のぶどうの房を取り入れよ。ぶどうの実は既に熟している。』」今度の天使は祭壇のところから出てきました。この黙示録では、祭壇というのは、信仰者たちの祈りが香のように神の前に立ち上っていくところだと説明されています(ヨハネの黙示録8章3-4節参照)。この祭壇のところから出てきた天使は祭壇の火をつかさどり、殉教者たちの悲しみや苦しみの祈りを神のところに運んでいく大切な働きをしていたのでしょう。それらの祈りを受け止め、それに応える形で登場してきたのだと思います。

 この天使は大声で「その鋭い鎌を入れて、地上のぶどうの房を取り入れよ。ぶどうの実は既に熟している。」と告げました。聖書の地、パレスチナ地方ではぶどうが良く実り、ぶどう酒を造りました。ぶどう酒造りでは、収穫したぶどうを足で踏んで絞り出し、その液体を発酵させるのです。それはこの地方の人々にとって身近な出来事でした。

 また、旧約聖書を読むと、しばしば刈り取られたぶどうの実が踏みつけられてその液が血のように流れ出ることが、裁きの形で書かれていることがあります。その中の一か所、イザヤ書63章2-4節を読んでみましょう。「『なぜ、あなたの装いは赤く染まり 衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。』『わたしはただひとりで酒ぶねを踏んだ。諸国の民はだれひとりわたしに伴わなかった。わたしは怒りをもって彼らを踏みつけ 憤りをもって彼らを踏み砕いた。それゆえ、わたしの衣は血を浴び わたしは着物を汚した。』わたしが心に定めた報復の日 わたしの贖いの年が来た」このようにイザヤは、神が怒りによってぶどうを踏みつける姿を描いています。神の怒りは、人間が神のみ心に従わずに自己中心に生き、神と隣人を愛する生き方をしていないからです。戦争という名のもとに人間同士が殺し合っている今の世界状況を思いますと、この幻が現実化するのは、そう遠くないのではないかと思ってしまいます。

 天使が「その鋭い鎌を入れて、地上のぶどうの房を取り入れよ。」と言っているように、このヨハネの黙示録で「地上」が強調されているのは、地上に住む多くの人がこの世の価値観に染まり、目に見える地上のものにしがみついて生きていることを象徴して「地上のぶどう」と言っているのです。ですから「地上のぶどうの房」というのは、この世に生きている者の不信仰の実をあらわしていると理解することができます。

「(19-20節)そこで、その天使は、地に鎌を投げ入れて地上のぶどうを取り入れ、これを神の怒りの大きな搾り桶に投げ入れた。搾り桶は、都の外で踏まれた。すると、血が搾り桶から流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンにわたって広がった。」これは何と恐ろしい光景でしょうか。刈り取られたものたちが、搾り桶の中に投げ込まれました。そして踏みつけられ、すりつぶされ、搾り出されています。神の怒りの桶の中で踏みしだかれる姿です。それが血の海となって広がっています。「馬のくつわに届くほど」ですから、かなり深いです。「千六百スタディオン」(1スタディオンは185メートル)という数字は、東西南北の四つの方向を四倍してさらに100倍した数で、途方もない距離です。つまり四方八方、全地のすべてにわたって徹底的な裁きが行われる様子が描き出されているのです。

 誰がこのような裁きに耐えられるでしょうか。ここで私たちは主イエスの贖いの御業を思います。私たちが負うべきこのような裁きを、私たちに代わって背負ってくださったお方がおられるということを知らねばなりません。いま天の神の右に神の小羊として立っておられる御子イエスがそのお方です。いまこの礼拝を受けていてくださり、私たちの賛美や祈りや感謝を受けとめていてくださるのです。

 私たちはこの恐ろしい裁きの幻の中に救いを見ます。ここには「搾り桶は、都の外で踏まれた。」とあります。「都の外」それは主イエスが十字架に架けられ血を流された場所です。都の外のゴルゴダの丘でイエスは十字架に架けられました。その時、神に敵対する力がイエスを裁き、イエスの血が流され、この世を支配する悪の力が勝利を収めたのでした。

 しかし、そこで大逆転が起こっているのです。イエスの血が流されたのはすべての人を救うためでした。イエスの血によって私たちは赦されたのです。神に背く者たちが神の怒りの搾り桶に投げ込まれて血を流させられるはずのその所で、イエスが血を流してくださったのです。ですから、このお方を信じて従う時、この恐ろしい、誰もが耐えられないような神の怒りの裁きを免れることができるのです。私たちは生きている時も、死ぬ時もこのお方の民であり、贖いを受けた者であることを忘れてはならないと思います。

(牧師 常廣澄子)