マタイによる福音書 28章16~20節 牧師 常廣澄子 本日はマタイによる福音書の最後の部分から、御言葉を聞いていきたいと思います。皆さまもよくご存知のように、マタイによる福音書の冒頭は主イエスの系図で始まっています。1章の半分くらいはずっとカタカナの名前が続いています。そしてこの福音書には幼少期を除いてイエスの御生涯が書かれています。その御生涯の終わりの部分ですから、本来ならば死で終わりのはずですが、イエスの御生涯は死で終わりではなかったのです。復活されたこと、さらには復活後のことにまで及んでいます。
マタイによる福音書

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すべての人への福音

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自分の命を得る
マタイによる福音書 16章21~28節 牧師 常廣澄子 神の御子イエスは、ユダヤの国で御生涯を送られたのですが、地上で過ごされていた時にいつも御自分が救い主であると自覚して、そのための働きをなさっていたというわけではありません。御生涯の

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婚宴に招かれる人
イエスがこのたとえを語られたのは、過越祭が始まろうとしているエルサレムの神殿の境内です。ローマ帝国に支配されていたユダヤの人たちは、毎年この時期になると愛国心が高まり、独立への希望が燃え上がっていました。その期待は、ロバに乗ってエルサレムに入場したイエスに向けられていましたが、みんながそれを喜んでいたわけではなかったのです。群衆の期待が高まれば高まるほど、ユダヤ教の指導者である祭司長や律法学者たちは、嫉妬と妬みでいらだち、怒りを感じて、イエスを殺そうとしていたのです。一方では歓喜の喜びがあり、その陰には殺意が潜んでいる状況の中で、イエスはこのたとえ話をなさったのです。分かる人には分かるけれども、ある意味では一種の謎のようなものですから、深い意味が分からない人もいたと思います。

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あの方は墓にはおられない
神の御子イエス様は、この世で真の人として生きられ、病気の人々を癒し、貧しく弱く虐げられている人々に寄り添い、神の国の教えを語られました。そのイエスを亡き者にしたいという思いを抱いていたのは、当時、神殿体制を批判されて苦々しく思っていた祭司長や律法学者たちでした。そして、ただそのことのためだけに真夜中にユダヤの議会が招集され、夜が明けるとすぐにイエスを処刑するために、ローマ総督ピラトのもとに連れていったのです。そこで、ピラトは彼らに扇動された民衆の声に押されて、十字架にかける決断を下しました。

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喜びにあふれる旅
クリスマスおめでとうございます。アドベントクランツのろうそくが4本灯り、本日は神の御子イエス・キリストの誕生を祝う喜びの礼拝です。日本を含む地球の北半球ではクリスマスは冬の寒い季節にあたりますが、この季節は冬至に近くて夜の闇の時間が長いですので、光にあふれたクリスマスは何か明るく暖かいものが感じられます。実際、神が人間世界においでになったという到底考えられないくらい驚くべき出来事、感謝してもしきれないほどの素晴らしい出来事なのです。

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神は一羽の雀をも
今は鳥の話題を取り上げましたが、神が造られた自然界にはいろいろな生き物がいてそれぞれの知恵や力を使って生き延びています。鳥も動物も昆虫もみんな弱肉強食の世界に生きていますから、子孫を残すために必死で生きているのです。しかし、人間世界においては弱肉強食のルールがまかり通ってはいけないと思います。ただ、人間は生きていくために、動物でも植物でも、他の生き物の命をいただいています。他の生物の命を御馳走になっていることを忘れてはいけないと思います。

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生命の畏敬
人間社会における倫理規定の中でも、一番最初に書かれている教え「殺してはならない」という殺人の禁止についてご一緒に考えてみたいと思います。殺人の禁止というのは、つまり命を大事にすることです。今朝お読みいただいたみ言葉は、以前にも二回にわたって細かくお話しさせていただきましたので、覚えておられる方もあると思います。律法の完成者と言われるイエスが、神が人間に与えられた律法の本質を易しくお語りになっている箇所です。

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二人の息子
今朝のみ言葉は、イエスがそのご生涯の終わり頃に語られた譬え話です。この話に入る前に、まずこれがどのような場面で語られた話であるかを考えてみたいと思います。23節に「イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。『何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。』」とあります。イエスは毎日神殿で教えておられたのですが、これを苦々しく見ていたユダヤ教当局者たちがいて、この話は彼らとのやり取りの中で語られたものです。

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自分の民を救われる方
クリスマスおめでとうございます。 皆さんとご一緒に2020年のクリスマスをお祝いできますことを心から感謝いたします。 今年一年は、新型コロナウイルス感染拡大によって、世界中の人が大変苦しい生活を余儀なくされました。そして一年を過ぎようとしている今なお、先が見通せずに厳しい状況が続いています。しかし世の中がどのように変化しようとも、神様が私たち人間に注いでいてくださる愛に変わりはありません。それはご自分の独り子さえも惜しまずに私たち人間のためにこの世にお降しくださったことからも明らかなことです。

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十人のおとめ
お読みいただいたところには、イエスが語られた譬え話が書かれています。その始まりは(1節)「そこで、天の国は次のようにたとえられる。」という言葉です。「天の国」というのは、日本語では死んでから行く天国のようなところを連想しますが、ここではそういう意味はありません。マタイによる福音書は、しばしば「神」の代わりに「天」という言葉を使っているのです。それはどうしてかと言いますと、マタイによる福音書はどちらかというとユダヤ人が読むことを想定して書かれているからです。ユダヤ人は神を畏れ、「神」という言葉を直接口にすることをはばかり、また直接書くことも避けていましたので、「神」の代わりに「天」という言葉を使っているのです。