マタイによる福音書

神は一羽の雀をも

今は鳥の話題を取り上げましたが、神が造られた自然界にはいろいろな生き物がいてそれぞれの知恵や力を使って生き延びています。鳥も動物も昆虫もみんな弱肉強食の世界に生きていますから、子孫を残すために必死で生きているのです。しかし、人間世界においては弱肉強食のルールがまかり通ってはいけないと思います。ただ、人間は生きていくために、動物でも植物でも、他の生き物の命をいただいています。他の生物の命を御馳走になっていることを忘れてはいけないと思います。

生命の畏敬

人間社会における倫理規定の中でも、一番最初に書かれている教え「殺してはならない」という殺人の禁止についてご一緒に考えてみたいと思います。殺人の禁止というのは、つまり命を大事にすることです。今朝お読みいただいたみ言葉は、以前にも二回にわたって細かくお話しさせていただきましたので、覚えておられる方もあると思います。律法の完成者と言われるイエスが、神が人間に与えられた律法の本質を易しくお語りになっている箇所です。

二人の息子

今朝のみ言葉は、イエスがそのご生涯の終わり頃に語られた譬え話です。この話に入る前に、まずこれがどのような場面で語られた話であるかを考えてみたいと思います。23節に「イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。『何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。』」とあります。イエスは毎日神殿で教えておられたのですが、これを苦々しく見ていたユダヤ教当局者たちがいて、この話は彼らとのやり取りの中で語られたものです。

自分の民を救われる方

クリスマスおめでとうございます。 皆さんとご一緒に2020年のクリスマスをお祝いできますことを心から感謝いたします。 今年一年は、新型コロナウイルス感染拡大によって、世界中の人が大変苦しい生活を余儀なくされました。そして一年を過ぎようとしている今なお、先が見通せずに厳しい状況が続いています。しかし世の中がどのように変化しようとも、神様が私たち人間に注いでいてくださる愛に変わりはありません。それはご自分の独り子さえも惜しまずに私たち人間のためにこの世にお降しくださったことからも明らかなことです。

十人のおとめ

お読みいただいたところには、イエスが語られた譬え話が書かれています。その始まりは(1節)「そこで、天の国は次のようにたとえられる。」という言葉です。「天の国」というのは、日本語では死んでから行く天国のようなところを連想しますが、ここではそういう意味はありません。マタイによる福音書は、しばしば「神」の代わりに「天」という言葉を使っているのです。それはどうしてかと言いますと、マタイによる福音書はどちらかというとユダヤ人が読むことを想定して書かれているからです。ユダヤ人は神を畏れ、「神」という言葉を直接口にすることをはばかり、また直接書くことも避けていましたので、「神」の代わりに「天」という言葉を使っているのです。

信じたとおりになるように

イエスが「山上の説教」を終えられ、カファルナウムに戻られた時の出来事です。当時カファルナウムがあるガリラヤ湖周辺地域は、ヘロデ・アンティパスという領主が治めており、そこにはローマ軍が駐屯していました。その軍隊の百人隊長が、イエスが山から下りて来られるのを待っていたかのように、近づいて来て懇願したのです。(6節)「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます。」彼は文字通り百人ぐらいの部隊の隊長ですが、どうも権威を笠に着て威張っている人間ではないようです。自分の部下が病気になったことを心配しています。兵隊の多くは傭兵だったようですが、彼は部下を極力大事にしていたに違いありません。ともに戦場を駆け巡って忠実に働いている仲間を何とか助けてやりたいと思ったのでしょう。その思いは、彼が直接イエスの所に出向いたことでわかります。

導かれる幼子イエス

イエス様の誕生を祝って真っ先に駆けつけたのは、野原で羊を飼っていた羊飼いたちでしたが、その後で、占星術の学者たちもはるばると遠い東の国からお祝いに詣でたことが書かれています。彼らを迎えたユダヤの王ヘロデは、ユダヤの王の誕生と聞いて、自分の地位を脅かすものとして恐れます。占星術の学者たちは宮殿を去り、ベツレヘムに行って幼子イエスに会うと、夢のお告げによってヘロデの許に帰らず、別の道を通って自分たちの国に帰っていきました。一方、ヨセフの夢にも主の天使が現われ、ヘロデがイエスを探し出して殺そうとしているから、エジプトに逃げるようにと告げたのです。ヨセフは驚いて、夜のうちにイエスとマリアを連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいました。イエスは常に神の護りと導きの中にありました。

あなたの王が来られる

この箇所は、イエスがその生涯の最後の週にエルサレムに入城した時の出来事ですが、古くから降誕節(アドベント)の第一日に読まれてきた箇所だと言われています。すなわち、イエスがエルサレムに入城したという出来事が、後の世に、イエスが今度は王として再び来られることの預言として読み取るという象徴的な意味があるのです。私たちは、クリスマスを、神の御子がこの世にお降りくださるという喜びと感謝の心でお迎えしますが、同時に、再びこの世においでになるイエスを待ち望みつつ、まだ来ていないイエスが実は既に来られたイエスであり、ろばの子に乗ってエルサレムに向かって進まれたお方であることを信じてお迎えするのです。主が来られる(アドベント)という事柄は、二千年の昔、ベツレヘムの馬小屋でお生まれになったイエスのご降誕を迎えることと、世の終わりにそのイエスが再びおいでになることを待ち望むことの両方を教えています。ですからアドベントの時期、私たちは過去を振り返りつつ、未来を待ち望む両方の姿勢で立っていることになるのです。

内なる光

マタイによる福音書の6章には一貫した論理があります。それは隠れた所で見ておられる神さまの存在です。施しをする時、祈る時、断食する時、いずれの場合もそれを人の前でひけらかすようなことはせず、隠れたところで見ておられる神の前で行いなさいということです。しかし、この22-23節は何かちょっと分かりづらいところです。目と身体の関係を言っているのでしょうか。物の見方が正しくないと身体の器官がうまく機能しなくなるとでも言っているのでしょうか。

秘められたこと

イエス様は、マタイによる福音書の5章から7章に書かれている「山上の説教」で、神を信じる者への祝福とその生き方を教えています。それはまず、神から私たちへの祝福を告げる言葉から始まり(5:3〜12)、その祝福が信じて受け入れた者にとって現実になるということ(5:13〜16)、さらには、与えられた福音の命が成長して、いつもどんな時も神の愛の中にあることが自覚できるようになるのだということです(5:17〜48)。