イエスのバプテスマの記事はルカ福音書には、わずか2節(3章21節22節)のみですので、罪のないイエスがなぜ、悔い改めのバプテスマをヨハネから受けられたのか、その経緯を、マタイ福音書3章13節~17節から確認しますと、イエスがヨハネの元に来られ、ヨハネにバプテスマを願い出られた、そのとき、「あなたがなぜわたしから」と、ヨハネはイエスのバプテスマを思い止まらせようとしました。しかしイエスはそれを振り切って、「今は止めないでほしい。正しいことはすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」と告げ、ヨハネはこれに従ってイエスにバプテスマを施したのです。
ルカによる福音書
ルカによる福音書
イエスの荒野での誘惑
ルカによる福音書
バプテスマのヨハネの働き
神による救済史を、三つに分けることがありますが、それは、「イスラエルの時」(旧約聖書の時代)、「キリストの時」、そして「教会の時」の三つです。そこにバプテスマのヨハネが登場したのは、「イスラエルの時」から「キリストの時」へ移ろうとしているその中間、すなわち“キリストの先駆者”(橋渡しをする者)として登場しました。
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少年イエスの言葉
ルカによる福音書2章41節~52節から、少年期イエスのみ言葉を中心に「恵みのみ言葉」をお届けいたします。因みに、御子イエスさまについての幼児期から少年期までのエピソードを伝えております福音書は、このルカ福音書のみです。それは本書冒頭に記されておりますように、“順序正しく書き記す”ということに加えて、イエスさまの幼児期から少年期への成長の中に、旧約の時代から新しい時代への大きな移り変わりの出来事が確かにあったことと、さらにこのことが伝えるメッセージを読者が読み取ってほしい、との願いが込められています。
ルカによる福音書
不正な管理人
この個所はイエスのたとえ話の一つですが、これは誰が聞いても何か不道徳でずる賢い男の話のように思います。イエスはどうしてこのようなたとえ話をなさったのでしょうか。ご一緒に聞いていきたいと思います。まず「(1節)ある金持ちに一人の管理人がいた。」当時、エルサレムに住む金持ちの多くは、地方に農園を持っていて、自分の土地を小作人に貸し付けていました。そして僕たちの中から管理人を派遣してその管理と経営を委ねていました。つまり彼に全財産を任せていたわけです。ところがこの管理人は任されているのは主人の財産であるのを知りながら、それをまるで自分の物であるかのように自分勝手にやりたい放題に使っていたのではないでしょうか。たぶんそれが目に余ったので、部下の誰かが主人に言いつけてしまったようです。「この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。」と書かれているとおりです。
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神殿で献げられたイエス
旧約時代を本当に信仰深く生きてきた人と、旧約時代から多くの預言者を通して預言されてきた、救い主メシアなるイエスさまとの出会いの出来事は、今現在のわたしたちの世界で起こっている、“古い年、苦難に満ちた年から、希望に満ちた新しい年への幕開け”、と理解することもできます。では初めから、皆さんと一緒にその出来事を辿っていきましょう。
ルカによる福音書
主イエスさまの誕生予告
ルカ福音書は文字通り、ルカが書いてローマの高官テオフィロに献呈したものですが、1章4節に「お受けになった教えが確実なものであることを、よく分っていただきたいのであります。」とあり、この短い節の中に、“キリストの教えが確かで安全なもの、そして、世界の人々が信じるに値するものである”、とのルカの信仰と篤い思いが込められているのです。そしてさらに、当時すでにローマの高官にまで、キリスト教が伝わっていたことも知ることができます。
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戻って来た一人
アドベントのろうそくが二本灯り、私たちは今、救い主イエス様の御降誕を祝うクリスマスを待ち望みながら一日一日を過ごしています。ただ、今年は新型コロナウイルス感染拡大という思いもしない出来事が全世界を襲っていて、一年を越そうとする今なお、先が見通せない状況にあります。そういう中で、今私たちは師走という一年最後の月を過ごしています。今年の流行語は「三密」に決まりましたが、今年は新型コロナウイルス感染防止のため、それぞれの生活が制約され、特別な一年であったと思います。でもそのように厳しい日々でしたが、私たちは護られて今ここにいます。そのことを心から感謝したいと思います。今朝は感謝するためにイエスのところに戻って来た一人のサマリヤ人のお話を通して、御言葉から聞いていきたいと思います。
ルカによる福音書
実のならない木
ルカによる福音書 13章1〜9節 近年、地球規模で気象が大きく変化していて、自然災害が多くなりました。地震や津波や大雨の被害等で多くの方が大変な被害を受け、苦しんでおられます。今は新型コロナウイルスという疫病
ルカによる福音書
無くした銀貨
ルカによる福音書15章には三つのたとえ話が書かれています。「見失った羊のたとえ」「無くした銀貨のたとえ」「放蕩息子のたとえ」です。今朝お読みいただいたのは、真ん中にあるたとえ話で、最も短いものです。この箇所はその前の「見失った羊のたとえ」の陰に隠れて、さっと読み過ごしている個所かもしれません。実はこれら二つの話は一対になっていて、同じ趣旨のことを語っていると考えられています。つまり同じ主題について事柄を変えて二回語ることによって内容が一層協調されるからです。
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宴会の席
この譬え話は大変分かりやすいものです。特に日本人には分かりやすいと思います。しかし、最近の催し事は予め席が決まっていることが多いからですから、このようなことはあまりないかもしれません。しかし一般的には、人に招かれた場合は、まずその場所での下座の方に自分の席を求めるようです。日本人は遠慮することを知っていますから、そうするのが自然な礼儀になっているような気がします。日本で上席と言いますと、和室の場合だと床の間に最も近い所、大きなホールですと正面の中央でしょうか。招待客はだいたいそこから遠い所に座ろうとするわけです。すると主催者側の人が来て、そんなところに座らないで、どうぞこちらへと勧めてくれて面目を施すことになるわけです。ところが興味深いことに、ユダヤの国にも上席末席があるようで、7節を読みますとイエスが招かれた食事会では、皆が上席に着こうとしていたというのです。どういうことなのでしょうか。ユダヤの人は自分に自信があるのでしょうか。あるいは自分を主張する精神が強いのでしょうか。