聖書

内なる光

マタイによる福音書の6章には一貫した論理があります。それは隠れた所で見ておられる神さまの存在です。施しをする時、祈る時、断食する時、いずれの場合もそれを人の前でひけらかすようなことはせず、隠れたところで見ておられる神の前で行いなさいということです。しかし、この22-23節は何かちょっと分かりづらいところです。目と身体の関係を言っているのでしょうか。物の見方が正しくないと身体の器官がうまく機能しなくなるとでも言っているのでしょうか。

主に望みをおく人

私たち人間にとって望みを持つことは、生きていくための大きな力になります。旧約聖書の時代、バビロンに捕囚となったイスラエルの民は、紀元前587年から半世紀にわたって、苦難の生活を強いられていました。そこでは人々はもはや自分たちは神から見捨てられたと絶望し、希望がありませんでした。しかし神はイザヤにイスラエルの民を解放させようとしていることを伝えました。 そして神の言葉のゆるがない約束を語るのです。(6~8節)どんなに美しい花であっても、間もなく朽ち果てる。人間もそれと同様である。希望を抱いたとしてもその根拠はない上に、一時的なものに過ぎない。本当の希望というのは、我々を裏切らないものでなければならない。神の言葉こそが永続する希望であると。イザヤは、バビロン捕囚からの解放を確信します。

聖なる生活

このテサロニケの信徒への手紙一は、パウロが一番最初に書いた手紙で、紀元50年頃にコリントで書かれたと言われています。パウロがテサロニケに伝道したのは、第二回伝道旅行の時でした。テサロニケの信徒への手紙には、テサロニケの信徒たちの信仰を喜びつつ、その置かれている状況を気遣うパウロの慰めと励ましの心が感じられます。

神の義を求める信仰

ローマ書の中心的なメッセージは、“信仰義認”の言葉に要約することができます。そしてその根拠は、神の義に基づく福音の到来です。1章16節、17節に、福音は、信じる者すべてに救いをもたらす神の力であり、福音には神の義が啓示されております。それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです、とあります通りです。

秘められたこと

イエス様は、マタイによる福音書の5章から7章に書かれている「山上の説教」で、神を信じる者への祝福とその生き方を教えています。それはまず、神から私たちへの祝福を告げる言葉から始まり(5:3〜12)、その祝福が信じて受け入れた者にとって現実になるということ(5:13〜16)、さらには、与えられた福音の命が成長して、いつもどんな時も神の愛の中にあることが自覚できるようになるのだということです(5:17〜48)。