聖書

良き管理者

パウロがコリントにある教会の信徒に向けて書いた手紙を読んでいますが、このコリント教会はいろいろな問題を抱えていたようです。アテネやコリントなどギリシアの諸都市にはアゴラという広場があり、人々はそこに集まってきて哲学やいろいろな知識を語り合い、互いに意見を戦わせていました。人々は学問や知識があることを誇りにしていましたし、学閥というのでしょうか、そういう学問をする人たちの間にはある種の派閥や党派があったようで、それが教会の中にまで入り込んできたのです。キリストへの信仰に導き入れられた後でもなお、そのような習性が現れてきてパウロを悩ましていたようです。3章でお読みしたように、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」といったようにグループができて、それぞれ党派心に燃え嫉妬や紛争となって教会を乱していたのです。

福音の力

ローマの信徒への手紙 1章14〜17節 ローマの信徒への手紙は16章まであり、様々な内容が含まれていますが、今朝お読みした個所は、ローマの信徒への手紙全体の内容を凝縮してまとめたものであるとも言えると思います

百人隊長の信仰

ルカによる福音書からのメッセージをご一緒に聞いて参りましょう。7章1節に「イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。」とあります。このカファルナウムは、イエスさまが故郷ナザレから場所を移し、そこで数々の説教をされた場所です。さらにその後イエスさまは、山に行き十二使徒選びをし、続いて、“平地に下りての説教”がありました。「幸いと不幸」、「愛敵の教え」、「人を裁くな」等々でした。

初めの愛

本日からしばらく、七つの教会に宛てた手紙を読んでいきたいと思います。これらはヨハネがキリストから託された手紙で、どの手紙にもその冒頭に「…の教会の天使にこう書き送れ」というように呼び掛けられています。それを語っておられるのは1節にありますように「右の手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方」キリストです。

真実な土台

パウロは神によって使徒としてたてられてからは、主の福音宣教のために3回にわたる大伝道旅行を試みています。交通の便の極めて困難な時代ではありましたが、シリアのアンテオケ教会を基点として、小アジアの全域をめぐり、マケドニアやアカヤ(今のギリシア)、そしてローマへと地中海を巡る諸国に主の福音を語っていきました。パウロは一か所にあまり長く滞在することはなくて、もっぱらその地に教会の土台を据えることに力を注いだのです。

使徒とされた者

聖書は古代から人類の歴史に深く関わってきた書物ですが、その中でもこのローマの信徒への手紙ほど大きな影響を与えた文書はないと言われています。アウグスティヌスをはじめとする初代教父たちや、宗教改革期のカルヴァンやルターたちを経て、現代の多くの神学者たちに至るまで、キリスト教の発展に寄与した人たちはほとんどこの手紙から大きな神の霊感を受けました。

人を裁くな

ルカによる福音書からのメッセージが続いておりますが、本日箇所は、6章37節から42節までです。先に、本日箇所に至るまでの流れを簡単に確認してから、本日箇所に入りましょう。イエスさまは、十二使徒選びの後、平地に下り、本格的な伝道に入られましたが、集まって来た、大勢の弟子たちを見て、「あなたがたは」と、親しく呼びかけながら「幸い」とされる人々、「不幸」とされる人々について教えられました。すなわち、「今貧しい人々、今飢え渇いている人々、今泣いている人々、あなたがたは、人の子すなわち、このわたしを信じ、従うゆえに、今は苦しんでいるかも知れない、しかし、天では大きな報いがあり、御国に招かれ、そこに、あなたたちの居場所が用意されている。そのため、あなたがたは『幸い』である。」逆に、「今富んでいる人、満腹している人、笑っている人は、先の人々のように、やがて受けるであろう幸いを、すでに受けてしまっている、だから、あなたがたは『不幸である。』」と言われたのでした。

生と死を支配される方

ドミティアヌスが皇帝崇拝を強要し、キリストを信じる者たちはいろいろな面で迫害を受けました。敢然とそれに立ち向かった者たちは当然処罰されたり、殉教したりしたのです。そういう厳しい状況の中で、ヨハネは、「(9節)わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。」と自己紹介しています。まず、自分は、アジアの諸教会にいる主を信じる者たちの仲間であり兄弟であることを言い表し、苦しみの中で忍耐しているのはわたしもあなた方と同じですと言っているのです。「その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである」というところは、「私ヨハネは、主を信じるがゆえに今苦難を受けています。しかしそれは主イエスのお苦しみの一端に与かっていることであり、私は神のご支配の中にいます。私はイエスによって備えられた神の国の民としていただいたことを喜び、その希望によって今ここで忍耐をもって過ごしているのです。」ということではないでしょうか。

成長させてくださる神

多くの人は旅を通して目新しい風物や自然に接すると、そのことを書き記すものですが、パウロはたくさんの手紙を書いているにも関わらず、そういう描写がどこにもないことは大変不思議です。その理由として考えられるのは、パウロにとっては一人でも多くの人に主の救いを語り伝えること以外には関心がなかったのかもしれません。さらに、当時の地中海が、今のようにクルージングのような楽しみや遊びの観点で見るものではなく、船が難破することや座礁すること等、危険な航海の思い出や恐ろしい体験につながったこともその一因かもしれません。

荒れ野に道を

「(1節)慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる。」ここでは、神が預言者イザヤに民を「慰めよ」と語っています。「慰める」という言葉の本来の意味は、深く息をすること、深く息を吸い込むことです。この「慰め」は「なぐさみ」ではありません。ただの憂さ晴らしや気を紛らわせて現状に目をつむってしまうことでもありません。聖書で語る「慰める」という言葉には、助けること、贖うこと、憂いの代わりに喜びを与えるという意味が含まれているのです。つまり現状をそのまま受け止める気休めの言葉ではなく、現状を新しく変えていく積極的な言葉だということをしっかり覚えたいと思います。