新約聖書

神を畏れる生活

今、私たちの第一の関心事は新型コロナウイルスのことではないでしょうか。誰もがどこに潜んでいるのかわからない、目に見えない小さなウイルスを怖がっています。確かにそれは恐れなくてはならないものですが、今朝は信仰者が畏れるべきものは他にあることをペトロの手紙から聞いていきたいと思います。それは「神を畏れる」ということです。

無くした銀貨

ルカによる福音書15章には三つのたとえ話が書かれています。「見失った羊のたとえ」「無くした銀貨のたとえ」「放蕩息子のたとえ」です。今朝お読みいただいたのは、真ん中にあるたとえ話で、最も短いものです。この箇所はその前の「見失った羊のたとえ」の陰に隠れて、さっと読み過ごしている個所かもしれません。実はこれら二つの話は一対になっていて、同じ趣旨のことを語っていると考えられています。つまり同じ主題について事柄を変えて二回語ることによって内容が一層協調されるからです。

隣人愛

二年余り続いておりますローマ書からの説教、現在は「実践生活についての教え」である、12章以降に入っておりまして、本日は13章8節からです。何時ものように、直近の前の部分を確認しながら、先へと進みたいと思います。12章では、この世における実践生活、そのものが“霊的礼拝”、また“理に適った礼拝”である。それは、すでに主イエスさまが、ご自身の十字架の贖いによって、わたしたちを生かしていてくださいますからです。よってわたしたちは、日々“霊的礼拝としての実生活”を送っていくことができます。その礼拝たる実生活においては、「愛に偽りがあってはならない」、「兄弟愛をもって互いに愛し合うように」、との勧めをいただくのです。

すばらしい喜び

このペトロの手紙は、困難にある人々を慰め、励ますために書かれたと言われていて、昔から多くの人に愛されてきました。はじめに少しこの手紙のことをご説明したいと思います。この手紙を書いたのは、1節に「イエス・キリストの使徒ペトロから」とあるように、ガリラヤの漁師からイエスの弟子となったペトロです。ペトロは兄弟アンデレと共にイエスの弟子となって、イエスに従っていきました。ペトロに関しては様々なエピソードがあり、聖書のあちこちにペトロの驚きや戸惑い、その行動が語られています。そのようにイエスの一番身近にいたペトロですが、イエスが十字架につけられた時には、イエスを捨てて逃げてしまいました。その後、復活のイエスに出会って、三度も私を愛するかと問われて、改めてイエスに対する愛を告白し、新たな思いでイエスに従っていったのです。その後は主の御霊に導かれて福音のためにすばらしい働きをしていきました。そして最後にペトロは殉教の死を遂げるのですが、イエスと同じでは申し訳ないと、自ら逆さはりつけを求めて死んだと言われています。

宴会の席

この譬え話は大変分かりやすいものです。特に日本人には分かりやすいと思います。しかし、最近の催し事は予め席が決まっていることが多いからですから、このようなことはあまりないかもしれません。しかし一般的には、人に招かれた場合は、まずその場所での下座の方に自分の席を求めるようです。日本人は遠慮することを知っていますから、そうするのが自然な礼儀になっているような気がします。日本で上席と言いますと、和室の場合だと床の間に最も近い所、大きなホールですと正面の中央でしょうか。招待客はだいたいそこから遠い所に座ろうとするわけです。すると主催者側の人が来て、そんなところに座らないで、どうぞこちらへと勧めてくれて面目を施すことになるわけです。ところが興味深いことに、ユダヤの国にも上席末席があるようで、7節を読みますとイエスが招かれた食事会では、皆が上席に着こうとしていたというのです。どういうことなのでしょうか。ユダヤの人は自分に自信があるのでしょうか。あるいは自分を主張する精神が強いのでしょうか。

神が定めた支配者への従順

2020年度が始まりましてから、会堂での礼拝は本日が二回目となります。会堂の前方講壇の横には、年間主題「主にあって日々新たに」と、聖句「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る」が掲げられておりますが、先週、礼拝が始まる前に、これを執筆してくださったかたが感慨深そうに、この貼り紙を眺めていたのが印象的でした。 わたしたちは、どんな困難な時も、この主題および聖句が示すように、主に望みを置きつつ、日々新たにされて、この苦難から立ち上がり、鷲のように翼を張って立ち上がることができますように、と願っております。

わたしの霊をすべての人に

本日は聖霊降臨の記念日、ペンテコステ礼拝です。クリスマスというイエス・キリストの降誕を祝う行事は世界中の人々に知られていますが、ペンテコステはほとんどの人が知らないでいます。考えてみますとこれは非常におかしいことです。父なる神がお遣わしになった「もう一人の助け主」であられる聖霊が降臨されたことは、少なくとも教会にとっては、救い主イエス・キリストがこの世に誕生されたことに匹敵するほどの大きな出来事だからです。

足ることを学ぶ

私たちは今、新型コロナウイルス感染防止にために、人と人ができるだけ接触しないように注意しながら暮らしています。心でどんなに親しく思っていても、人に対して身体を通して温かい交わりを表わせないのは、とてもさみしく残念なことです。誰とも会えずに孤独感を強めておられる方もたくさんおられると思います。でもそんな時に「お元気ですか」と一本のお電話があったり、「手作りマスクです。どうぞお使いください。」と封筒に入ったマスクが届いたりすると、暗い心がいっぺんに明るくなり、元気が出てきます。今朝は、獄中で苦しい立場にいたパウロが、フィリピの信徒たちからの贈り物を受け取って感謝していること、またそれと同時に主にある自分の信仰姿勢を語っている箇所を見ていきたいと思います。

大きな淵

この話には金持ちが出て来ますが、大事な言葉がその前の部分にあります。「(14〜15節)金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。そこで、イエスは言われた。『あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存知である。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。』」ここでわかるように、このたとえ話に出て来る金持ちとは、金に執着するファリサイ派の人々のことを指していると考えられます。金に執着するというのは、お金や富に心が奪われ、それに縛られている人たちです。神はそういうことを忌み嫌っているとイエスは言われました。

霊に燃え、主に仕える

信仰によって義とされた者としての、わたしたちの日々の生活そのものが“わたしたちのなすべき礼拝である”、“理に適った礼拝である”といわれます。それは、前回説教箇所、ローマ書12章1~8節に示されておりました。これは、キリスト者の実践生活の基本姿勢です。これを受けて、本日箇所、9~21節では、具体的な教えについて、十項目(十二項目ともされる)が記されておりまして、これを名付けて、「愛についての十戒」、ないしは“十二戒”と言われています。先ず初めにそれを見て参りましょう。