新約聖書

幼子を抱いて

生まれたばかりの赤ちゃんがもつその柔らさと愛おしさは心底感動するものです。小さな命はそっと扱わなければ今にも壊れてしまいそうな弱さを持っています。御子イエスはそのような小さな肉体を持ってこの世に来てくださいました。それは人間として生きるすべてを体験されたということです。御子イエスは、当時の子どもたちと同じ道をたどられました。律法を守り、八日目に割礼を受け、イエスと命名されました。そしてモーセの律法に定められた清めの期間が過ぎた時、最初に生まれた男の子として神に聖別されるために、エルサレムの神殿に連れて来られたのです。

天に栄光、地に平和

ルカによる福音書が伝える、イエス・キリストの誕生のメッセージについて、2019年度のクリスマス・イブ礼拝の説教からお届けいたします。 第一に、イエス・キリストの誕生のできごとは、“神が人となって世に降って来られた”出来事です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書3章16節)と示されていますように、神は、すべての人を救い、永遠の命を与えるために、その独り子を惜しまず世に遣わされました。

恵みと真理に満ちた方

イエスは神の御子であられますが、神の身分であることに固執せず、へりくだって人となり、貧しいヨセフとマリアの子どもとしてこの世にお生まれくださいました。14節に「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」と書かれていることがそのことです。この出来事は、神の性格を示していると言ってもよいかもしれません。聖書の神は、人間に語りかける神であるということです。ヘブライ人への手紙1章1-2節「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」とある通りです。神はいつも天上から私たちの歩みを眺めておられるだけではなく、私たち人間の重荷や苦しみを一緒に担ってくださるために人となってこの世界に降ってくださったのです。

光の子として生きる

主の再臨がすぐにも起こるのではないかと思っていたテサロニケの人たちに対して、パウロが答えています。主の日がいつ来るのか、その時期は誰にもわからない、しかし主の日は確実にやってくる、しかも、盗人が夜、突然やって来るように、また妊婦に産みの苦しみが来るように起こるのだと。そして不安がる人々にパウロは語るのです。(4節)「しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。」と。何か矛盾しているようですが、パウロがここで言いたいことは、あなたがた主を信じる者は、いつも主が共におられる、だからいつ主の再臨があっても大丈夫、ということなのです。イエスが来られることを特別なお客さんが来られるように思わなくても良い、いつもの通りでいなさい、ということです。なぜなら主を信じる者にはいつもイエスが伴っておられるからです。

聴いて宣べ伝える人

ローマ書9章~11章は、“全人類の救い”(または“万人の救い”)と言われる個所です。しかしその背景には、いわゆる“イスラエル問題”がその中に大きなウエイトを占めております。先に神に選ばれ、多くの恵と約束をいただいたはずのイスラエルが、なぜ、いまもイエス・キリストの福音を拒み続けているのか、これがイスラエル問題です。そしてこのイスラエルが、イエス・キリストの福音を信じて受け入れて初めて、全人類の救いが達成するのです。また、一方わたくしたちにとってイスラエルとは誰でしょうか、そして今どんな状況に置かれている人でしょうか、このことも考えながら本日の聖書箇所へと進みます。

あなたの王が来られる

この箇所は、イエスがその生涯の最後の週にエルサレムに入城した時の出来事ですが、古くから降誕節(アドベント)の第一日に読まれてきた箇所だと言われています。すなわち、イエスがエルサレムに入城したという出来事が、後の世に、イエスが今度は王として再び来られることの預言として読み取るという象徴的な意味があるのです。私たちは、クリスマスを、神の御子がこの世にお降りくださるという喜びと感謝の心でお迎えしますが、同時に、再びこの世においでになるイエスを待ち望みつつ、まだ来ていないイエスが実は既に来られたイエスであり、ろばの子に乗ってエルサレムに向かって進まれたお方であることを信じてお迎えするのです。主が来られる(アドベント)という事柄は、二千年の昔、ベツレヘムの馬小屋でお生まれになったイエスのご降誕を迎えることと、世の終わりにそのイエスが再びおいでになることを待ち望むことの両方を教えています。ですからアドベントの時期、私たちは過去を振り返りつつ、未来を待ち望む両方の姿勢で立っていることになるのです。

天を仰いで生きる

ここには、二千年前、目に見える人間の姿をとって生きておられた神の御子イエス様が、地上での働きをすべて終えられて、ペトロたち弟子の目の前で天の父のもとに帰って行かれた時の様子が書かれています。ある意味で、これは新約聖書の中で最も大切な記事かもしれません。(9節)「 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」雲は神のご臨在を表わす時に用いられます。イエス様は神に迎えられ、神の栄光の中で地上から去って行かれたのです。

主と共なる人生

私たちは死をどのように捉えているでしょうか。ここではパウロが死んでいった人たちのことについて語っています。(13節)「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。」当時のテサロニケの信徒たちは、イエスの再臨は極めて近いと信じていて、その日を迎えることに大きな希望を抱いていました。ところが、イエスが来るのを待たずに死んでいく人が出始めたものですから、彼らはイエスの祝福と救いの完成に与かることができないのではないだろうかといった心配や、彼らのことを憐れんだり、悲しんだりする人が現われたのです。

主の名を呼び求める者の救い

この聖書箇所がわたしたちに伝える福音のメッセージは、大きくは、9章から11章の“全人類の救い”についてであり、さらに詳しくは、直前4節「キリストは律法の終わりになられた」、すなわち、「律法に終止符を打たれた」(原語のギリシア語の解釈)を受けて、律法による義と、信仰による義を別の角度から比較しつつ、さらにわたしたちが、イエス・キリストを救い主として信じる、“信仰による義”(ローマ書の中心的テーマ)へと至る道筋を示しております。そしてそこにはユダヤ人、ギリシア人の区別はなく、主を信じ、主の名を呼び求める者すべてが救われる、と告げております。

内なる光

マタイによる福音書の6章には一貫した論理があります。それは隠れた所で見ておられる神さまの存在です。施しをする時、祈る時、断食する時、いずれの場合もそれを人の前でひけらかすようなことはせず、隠れたところで見ておられる神の前で行いなさいということです。しかし、この22-23節は何かちょっと分かりづらいところです。目と身体の関係を言っているのでしょうか。物の見方が正しくないと身体の器官がうまく機能しなくなるとでも言っているのでしょうか。