聖書

底なしの淵

ヨハネの黙示録 9章1~11節 牧師 常廣澄子        私たちは今、ヨハネの黙示録を通して、著者ヨハネの霊の目に映し出された天上の礼拝の様子を見ています。天の御座の中央に立たれるお方は、豪華な王者の衣をまとうお方ではなく、ほふられた小羊の姿です。それは虐げられ、苦しめられ、傷つけられたお姿でした。この方こそ、神の小羊としてご自分のお身体を捧げられたイエス・キリストに他なりません。このお方は天上にあるもの、地上にあるもの、地下にあるものが口をそろえて「王の王、主の主」として崇められるお方です。そしてこのお方が七つの封印で封じられた巻物を手に取り、その封印を一つひとつ開けていったのです。封印を解いていくことがおできになるのはこの方以外にいないのです。第七の封印を開いた時、神の御前に立っている七人の天使に七つのラッパが与えられ、次々と吹き鳴らされていきましたが、天使がラッパを吹き鳴らす度に、そこには恐るべき審きの光景が映し出されていきました。神の審きというのは、神を神として認めようとしない者に加えられるのです。

永遠に存続するもの

コリントの信徒への手紙 一 13章8~13節 牧師 常廣澄子   先週、私たちはイエス様の復活を喜び、祝い、感謝するイースター礼拝をお捧げいたしました。 本日は、先に天に帰られた方々を偲び、私たちもまたいつの日か神の身許でそれらの方々とお会いする日を思いながら、感謝の礼拝をお捧げしたいと思います。

主はよみがえられた

ルカによる福音書 24章1~12 牧師 常廣澄子 イースターおめでとうございます。本日は、イエス・キリストの復活を喜び感謝し、そのことをお祝いするイースター礼拝です。 このキリストの復活という出来事は、キリスト教信仰の最も中心にあるものです。毎週日曜日に行われる主の日の礼拝は、このイエスの復活を記念する礼拝であることは言うまでもありません。今では「復活」という言葉をいろいろなところで自然に使っていますが、「復活」つまり「死人のよみがえり」ということは、受け取りようによっては、不気味なことです。しかし、キリスト者ははっきりそのことを信じるという信仰告白をいたします。なぜならイエスの復活という出来事こそが人間の罪の贖い、つまり救いの完成だからです。けれどもこの復活ほど、私たち現代人にとって理解し難くて分かりにくいものはないのです。実を言えば、イエスの弟子たちでさえも、当初はイエスの復活を信じることができませんでした。

十字架に向かって

ルカによる福音書 9章51~62節 牧師 永田邦夫      本日は2023年度に入りまして最初の主日礼拝です。そして、イースター前の受難節、わたしたちは、主イエスさまの十字架の受難のことに思いを馳せながら、この時を過ごしております

アダムとキリスト

ローマの信徒への手紙 5章12~21節 牧師 常廣澄子    私たち人間が住むこの地球上で、今、国と国がいがみあい、人間同士が殺し合いをしています。理由がどうであれ、人が人を殺すということはやってはならないことです。一方的で独善的なこのような戦争は、誰が見ても誰が聞いても理不尽なことではないでしょうか。いったい人間の心には何があるのでしょうか。人間というものは、どうしてこのような行動を起こすのでしょうか。国と国の関係だけではありません。私たちはすぐ身近にいる人に対してさえ、妬みや憎しみという悪い感情を抱いてしまい、ついには殺人にまで発展してしまうことがあります。

歴史からの教訓

コリントの信徒への手紙一 10章1~13節 牧師 常廣澄子  イースターを前にして、私たちは今受難節(レント)の時を過ごしています。私たちの救いのために神の御子が十字架に向かって進んでおられるのです。私たちの信じている神は、天の高みにおられてはるか遠くから私たちを見下ろされているような方ではなく、天から降って人間世界に飛び込まれ、ご自分の命さえも捨てることがおできになるお方なのです。そのような愛の神を信じて生きる者がどんなに祝福された者かを、今朝はコリントの信徒への手紙から見ていきたいと思います

互いに受け入れ合う

ルカによる福音書 9章46~50節  牧師 永田邦夫       本日は3月第二週の主日礼拝です。また昨日の3月11日は、12年前に起きた東日本大震災を記念する日でした。また世界では、約一か月前に発生したシリア、トルコでの大地震があります。このように、突然起こるかもしれない大きな地震や自然災害に対して、わたしたちは普段からの心備えが大切であることを、また改めて考えさせられているときでもありました。

天使のラッパが鳴る

ヨハネの黙示録 8章6~13節 牧師 常廣澄子       最近、AI(人口知能)が論文を書いたり、人間の病気を診断したり、医学的な処方を教えてくれたりするということを知り、人間の技術開発はいったいどこまで進歩するのだろうと驚いています。しかしそのようなことは、目まぐるしく進化する人間世界の一端かもしれません。今私たちが生きている世界は、科学技術の目覚ましい発達によって、かつてないほど豊かになり、様々な便利なものに溢れ、季節を問わずいつでも快適に過ごせる時代になっています。しかし一方で、今までは考えられなかったような凶悪な犯罪が横行し、次々と複雑な事件や思いもしない事故が起こっています。ロシアとウクライナの戦争は長期戦となりつつあり、世界の国々は一触即発の緊張状況にあり、いつ破滅的な事件が起きてもおかしくないほどの危うさに満ちています。今の時代は本当に先の見通せない危険な状況にあるように思えます。皆さまは今の世界をどう見ているでしょうか。

神にある平和

ローマの信徒への手紙 5章1~11節 牧師 常廣澄子     4章では、アブラハムの生涯やダビデの言葉などを通して、神を信じるとはどういうことか、信仰の本質について学んできました。続くこの5章では、信仰によって救われて義とされた者の祝福と喜びについて語られています。「(1節)このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、」信仰によって義とされた者は「神との間に平和を得ている」というすばらしい約束です。平和(エイレーネー)という言葉は、あらゆる善と祝福を意味する言葉です。ユダヤ人は挨拶の時に「あなたに平和がありますように!」と言いますが、それは平和だけではなく、あらゆる善と祝福がありますように!という意味です。

朽ちない冠

コリントの信徒への手紙 一 9章19~27節 牧師 常廣澄子  私たちは今、コリントの信徒への手紙を読み進めていますが、パウロがキリストの福音を自由に語っている姿を見るとほんとうに感動します。パウロが各地を訪問して、あらゆる人たちにキリストの福音を語っているのは、彼の持っている大きな人類愛であったと思いますが、ある意味で、それは自分のような反逆児にさえも現れてくださった復活のイエスに対する感謝の現れです。そして同時に、そのイエスを遣わされた神に対する負い目でもあったのではないでしょうか。ローマの信徒への手紙の1章14節には「わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。」というように「果たすべき責任」とまで言っています。パウロはキリストの福音を語ることでの様々な苦労を、キリストの十字架の苦しみ、あるいは自分が迫害してきたクリスチャンたちの苦しみに重ねていたのかもしれませんし、何よりもその働きをすることを、神の御前にあって大変光栄なことだと感じていたのではないでしょうか。