新約聖書

主の名を呼び求める者の救い

この聖書箇所がわたしたちに伝える福音のメッセージは、大きくは、9章から11章の“全人類の救い”についてであり、さらに詳しくは、直前4節「キリストは律法の終わりになられた」、すなわち、「律法に終止符を打たれた」(原語のギリシア語の解釈)を受けて、律法による義と、信仰による義を別の角度から比較しつつ、さらにわたしたちが、イエス・キリストを救い主として信じる、“信仰による義”(ローマ書の中心的テーマ)へと至る道筋を示しております。そしてそこにはユダヤ人、ギリシア人の区別はなく、主を信じ、主の名を呼び求める者すべてが救われる、と告げております。

内なる光

マタイによる福音書の6章には一貫した論理があります。それは隠れた所で見ておられる神さまの存在です。施しをする時、祈る時、断食する時、いずれの場合もそれを人の前でひけらかすようなことはせず、隠れたところで見ておられる神の前で行いなさいということです。しかし、この22-23節は何かちょっと分かりづらいところです。目と身体の関係を言っているのでしょうか。物の見方が正しくないと身体の器官がうまく機能しなくなるとでも言っているのでしょうか。

聖なる生活

このテサロニケの信徒への手紙一は、パウロが一番最初に書いた手紙で、紀元50年頃にコリントで書かれたと言われています。パウロがテサロニケに伝道したのは、第二回伝道旅行の時でした。テサロニケの信徒への手紙には、テサロニケの信徒たちの信仰を喜びつつ、その置かれている状況を気遣うパウロの慰めと励ましの心が感じられます。

神の義を求める信仰

ローマ書の中心的なメッセージは、“信仰義認”の言葉に要約することができます。そしてその根拠は、神の義に基づく福音の到来です。1章16節、17節に、福音は、信じる者すべてに救いをもたらす神の力であり、福音には神の義が啓示されております。それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです、とあります通りです。

秘められたこと

イエス様は、マタイによる福音書の5章から7章に書かれている「山上の説教」で、神を信じる者への祝福とその生き方を教えています。それはまず、神から私たちへの祝福を告げる言葉から始まり(5:3〜12)、その祝福が信じて受け入れた者にとって現実になるということ(5:13〜16)、さらには、与えられた福音の命が成長して、いつもどんな時も神の愛の中にあることが自覚できるようになるのだということです(5:17〜48)。